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      <title>街から舎 | 編集室から</title>
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      <description>エディターズスタジオ街から舎のページです。ここでは様々なイベントなど編集室からお知らせしたいトピックなどを掲載していこうと思います。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>草森紳一さん追悼ノート</title>
         <description><![CDATA[<strong>草森紳一さん追悼ノート　</strong<strong>　（文・本間健彦）</strong>

☆新聞の朝刊を「死亡記事欄」から眼を通すようになったのはいつ頃からのことだろうか。新聞の死亡記事欄に掲載される人たちは斯界の著名人や各界で活躍された知名人だから、私などには無縁の方ばかりで、「あっ、この人亡くなったのか」と死亡記事を見てちょっと驚いたり何がしかの感慨を覚えたとしても、大半は新聞や雑誌やテレビなどでその名前や顔を知っていた人に過ぎない。にもかかわらず、「死亡記事欄」にまず眼を通すのは、私とは無縁の人だったにしても、同時代を生きて来た人の人生の終わり方というものが、どんな重大ニュースより目を引くことが少なくないからなのだ。
☆去る4月30日の日曜日の朝、いつものように朝刊の「死亡記事欄」にまず目を通した私は、そこで草森紳一さんの訃報に遭遇した。草森紳一さんについては、本誌83号（2006年7-8月号）で「われらの時代の＜雑文豪＞草森紳一の本を読もう」と題したインタビュー記事を書いているのでご記憶の読者もおられるだろう。その記事のなかでふれているけれど、草森さんとは、私が若い頃、雑誌『話の特集』や新宿のタウン誌『新宿プレイマップ』の編集者をしていたとき、「草森番」（草森さん担当の原稿取り）をつとめていたという間柄で、作家と編集者という関係だったのだが、同世代ということもあってその頃は友達感覚でお付き合いしていただいてきた。だが、近年はすっかり御無沙汰のしっぱなしで、あのインタビュー記事を書くために十数年ぶりにお会いしたのだった。それゆえ草森さんの訃報は、そんな私にとって、まさに遭遇だった。
☆朝日新聞の死亡記事には「20日、心不全で死去、70歳。通夜、葬儀は行わない」と記されており、東京新聞には「29日までに、心不全のため東京都江東区の自宅で死去」と報じられていた。いずれにせよ草森さんが死亡したのは20日以降で、前日の29日に発見されるまでの数日間、永代橋袂のマンションの自室で死の床にあったことになる。草森さんの自宅兼仕事部屋は7万冊余の万巻の書で立錐の余地もない有様だったというから、彼は書籍に埋もれて黄泉の国に旅立って逝ったのだろう。
☆草森さんの旧友で詩人の<strong>高橋睦郎</strong>さんは、5月21日付け東京新聞夕刊文化欄に<strong>「読む人　または書刑――草森紳一に」</strong>と題した追悼詩を寄せている。その一節を引かせてもらうとーー。

　　　<strong>食うための場所　寝るための空間など　
　　　書物に占領され　疾うに消え失せた　
　　　幾十幾百とない書物の塔の
　　　僅かな隙間(すきま)に　
　　　尻を置き　脚を抱いて　
　　　膝の上で読みつづける
　　　読んで夜もない　読みつづけて昼もない　
　　　読んで昨日もなく　読みやめず明日もない</strong>

と、書に殉じた草森紳一像を的確かつ鮮烈に謳っている。そして異能の友を、＜書物を創出した人間を自覚し　自らに課する刑罰　書刑そのまま屈葬＞と評し愛惜している。
☆草森紳一さんの死亡記事に遭遇した私は居た堪まれず、永代橋袂の彼のマンションを訪ねていた。部屋のドアが半開きしていて、狭い玄関先にまで書物が山積みされ、その一部が崩れ、居間への通路が本のトンネルと化している。半開きのドアの所まで崩れ落ちている数冊の本の上に女物の靴とハンドバックが置かれている。ドアの外に立っていた若い男に「どなたか部屋におられるのですか？」と訊ねると、「ええ、いま奥さんにゲラを探していただいているのです」と男は言った。どこかの編集者のようだった。「えっ、そういう女性(ひと)がいたのか・・・？」と、私はちょっと驚いたのだったが、そういうのも草森さんらしいなあ・・・、といくぶん重苦しい気分が晴れた。草森紳一さんは自分流の悦楽をこよなく愉しんだ人だったということを、ふと想い出したからだった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（2008年6月『街から』94号編集後記）

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         <link>http://www.machikara.net/event/2008/06/post_18.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Fri, 13 Jun 2008 16:11:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>シティ・ライツ・ノート／目次</title>
         <description><![CDATA[<strong>シティ・ライツ・ノート　（文・本間健彦）</strong>

<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_3.html">飛鳥山公園と赤羽自然観察公園</a></strong>　　　　　　　　　   　　1996年４月（22号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_7.html">群馬県甘楽町と東京都北区のネットワーク</a></strong>　　　　　   　1996年6月（23号）
<strong>変わらないことの美徳</strong>　　　　　　　　1996年11月（「草風」寄稿）
<strong>消えたヘアーの謎</strong>　　　　　　　　　   　 1997年6月（29号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_8.html">大阪寺町のデンデケデケデケ</a></strong>　　    　 1998年6月（35号）
<strong>今が修羅場よ！</strong>　　　　　　　　　　   　 1998年8月（36号）
<strong>＜愛の賛歌＞に涙する気分</strong>　　　   　 1998年12月（38号）
<strong>五月生まれの娘に贈る句</strong>　　　　     　1999年6月（41号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_5.html">新藤兼人監督『生きたい』の佯狂老人考</a></strong>　　 　  　 1999年12月（44号）
<strong>小劇場へのオマージュ</strong>　　　　　  　  　 2000年2月（45号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_9.html">笑いの哲人マルセ太郎を悼む</a></strong>　 　  　 2001年4月（52号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_6.html">黒田オサムとドンちゃん</a></strong>　　　　　 　   　2001年6月（黒田オサムパンフ）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_10.html">リース地獄脱出宣言</a></strong>　　　　　　　 　   　2002年5月（58号）
<strong>二人の旧友の死</strong>　　　　　　　　　    　　2003年2月（63号）
<strong>ひまわり娘たちの話を聴こう</strong>　　　     　2003年7月（65号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_11.html">ミニコミ書店の店主たち</a></strong>　　　　　　    　2003年11月（67号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_12.html">ミニシアターの愉しみ方</a></strong>　　　　　　    　2004年1月（68号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_17.html">ジャン・ユンカーマン監督「第９条を世界へ輸出しよう！」</a></strong>　　2005年7月（77号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_13.html">フォークソングの吟遊詩人・高田渡</a></strong>     　2005年9月（78号）
<strong>カフェ・オーナーになった三人娘</strong>　      　2006年9月（84号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_14.html">高田豊と石川三四郎</a></strong>　　　　　　　      　2007年6月（88号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_16.html">須賀敦子さんの,イタリア版「傘がない」</a></strong>　　　　　　　     　2007年8月（89号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_15.html">ドキュメンタリー映画監督佐藤真の死</a></strong>　2007年10月（90号）
<strong>高田渡生誕会５９</strong>　　　　　　　　　     　 2008年2月（92号）
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         <link>http://www.machikara.net/event/2008/05/post_2.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Sun, 11 May 2008 23:00:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ジャン・ユンカーマン監督「第９条を世界へ輸出しよう！」</title>
         <description><![CDATA[<strong>日常にある＜戦争＞の火種　（文・本間健彦）</strong>

☆わたしたちの、こんな小さな街の雑誌で「日本国憲法」の第9条の意義を考えるなんてちょっと大げさかなと思わないわけでもない。でも、一市民の義務として、それもありかと、たまにはこういう大きなテーマにもチャレンジしてみました。それにしてもお隣の板橋区高島平で起きた少年による父親・母親殺しは衝撃的でした。
9．11事件が起きた時に「これは戦争だ!」と,どこかのとんでもない大統領が騒ぎ立てたあの呪われた言葉を連想してしまった。
少年は父親を恐れ憎んでいたようです。父親は少年にとって圧制者のような存在だったのかも知れない。少年は追い詰められていたのかも知れないし、自分自身を過剰に追い込んでしまっていたのかも知れない。父親を倒さなければ自分自身の存立・自由が保てないと。で、父親を殺したのだろう。
昨今の犯罪には似たような事件が少なくない。短絡指向と感情の爆発。それが多くの場合、戦争や犯罪の引き金だろう。
確かにわたしたちの日常には戦争の火種は無数にあります。
けれども、少年は父親を殺すことで、果たして自分自身の存立や自由の確保ができたのだろうか？答えは問うまでもないでしょう。
戦争という無意味かつ空しい手段で紛争や問題を解決しようという悪癖を、わたしたち人類はいつになったら止められるのだろう？　　　　　

　<strong>（２００５年７月『街から』７７号・編集後記より）</strong>

＊『街から』７７号では、<strong>映画「日本国憲法」の監督・ジャン・ユンカーマンさんへのインタビュー記事「日本国憲法＜第９条＞を世界へ輸出しよう！」</strong>を掲載している。]]></description>
         <link>http://www.machikara.net/event/2008/05/post_17.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Sat, 10 May 2008 12:50:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ドキュメンタリー映画監督/佐藤真さんの死</title>
         <description><![CDATA[<strong>ドキュメンタリー映画監督/佐藤真さんの死　 （文・本間健彦）</strong>

☆ドキュメンタリー映画監督の佐藤真さんが、去る９月４日亡くなった。重い鬱病を発症して病院で加療中だったが、病室から抜け出し投身自殺を図ったのだという。享年４９。１５年前、『街から』創刊号に神田真理子さんが「＜川の民＞からの贈り物」と題したエッセイで、佐藤真監督のデビュー作品『阿賀に生きる』を紹介してくれたのが、佐藤さんの存在を知った最初だった。当時は北区に編集室があり、佐藤さんもその頃は北区に住んでいたので、時々お会いする機会があった。いつも優しい微笑を絶やさない人だったなあ、という印象がある。優しい微笑と優しい眼差しは、彼のドキュメンタリー映画を制作する基本的な視点でもあった。絵を描く障害を持った子供たちや大人たちをユーモラスに映像化した『まひるのほし』、難病を抱え３６歳の若さで亡くなった写真家・牛腸茂雄の人物写真・風景写真を淡々と追うことで、夭折した若い写真家の人生を見事にクローズ・アップした『ＳＥＬＦ　ＡＮＤ ＯＴＨＥＲＳ』、毎日の食事の残飯や魚の骨などを用いて無心に泥絵的なアートに取り組む障害を持った娘とその母親の日常を描いた『花子』など、佐藤監督の作品は、第一作の『阿賀に生きる』から一貫して優しい眼差しで、世の中の主流から取り残された人間を描いてきた。そういう手法で佐藤監督は、ドキュメンタリー映画の新しい地平を切り拓いてきたのである。けれども、生身の佐藤さんが、優しい微笑と優しい眼差しの内に抱えていた深い闇と怒りについても思いを致さないわけにはいかない。１０年前、『街から』（第２６号）に掲載した佐藤真監督のインタビュー記事の一節を紹介して、佐藤さんを偲び、御冥福を祈りたいと思う。

<strong>（２００７年１０月『街から』８９号）</strong>

<strong>＊佐藤真インタビュー記事の一節</strong>
佐藤　僕らの世代の東京っ子というのは高度成長の真っ只中に育ったせいか、いつも街が建設中だった、という感じをずっともってきた。そういうと何か希望のもてる時代に生きてきたみたいだけど、実際はしみったれた団地の片隅で少年時代を含めてずっと過してきた…（笑）いまおもえば、いつも建設中だった街というのは、いわば“マチ壊し”をしてたってことで、つまり“マチ殺し”だったんですね。
――　マチ壊し的な行為は、大都市だけでなく、水俣や、「阿賀に生きる」の舞台となった山村など地方の町や村にまで及んでいますね。
佐藤　そうですね。都市化社会の地方への波及により、地方が地方として成り立たなくなってきている。それも大問題です。
――　でも、「阿賀に生きる」の主人公たちのように、都市的なものに収奪され、傷つきながらも、まるで何事もなかったみたいに、自然のなかで悠々と生きている老人たちの姿はとても感動的でしたね。
佐藤　壊された街や村であっても、人はけなげに生きていくしかないんじゃないですか。
――　ならば、東京にも希望がもてますか？
佐藤　たぶん希望はもてないんじゃないかな。すごく雑駁な予測ですが、あと１０年もたつと、東京は、文化だけじゃなく、政治や経済の分野でも、アジアのなかでの地位が落ち込んでいく、と僕は見ているんですね。

<strong>（1996年12月『街から』２６号：　インタビュー　佐藤真「東京私観」より）</strong>






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         <link>http://www.machikara.net/event/2008/05/post_15.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Sat, 10 May 2008 11:48:47 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>須賀敦子さんの,イタリア版「傘がない」　</title>
         <description><![CDATA[<strong>須賀敦子さんの,イタリア版「傘がない」</strong>

☆須賀敦子さんの「雨のなかを走る男たち」（『トリエステの坂道』所収‥新潮文庫）というエッセイに、こんな一文がある。
「イタリアで暮らすようになって、ひとつ、びっくりしたことがあった。学生をふくめて、生活がぎりぎりという階級の男たちが傘をもっていないのだ。（中略）　イタリアでもすくなくとも二十年ほどまえまで、傘は一種の贅沢品だったのではなかったか。だいいち、傘屋というのが街にない。どこで売っているのだろう。そんなわけで、にわか雨にあったとき、上着の前を手で閉めて走る人種と、そうでない人種にわかれる。」
須賀さんのこの本が刊行されたのは１９９５年だから、その２０年前というと７０年代中頃までの話ということになるが、今はどうなのか？現イタリア在住の神田真理子さんに尋ねてみようと思っているうちに締め切りがきてしまった。
☆ところで、前記のエッセイには、著者がイタリア人の夫と結婚してまもないころ夕方にわか雨が降ったので市電の停留所まで傘をもって迎えに行くと、電車から降りて来た夫は、視線が合った筈なのに知らん顔をして通り過ぎ、雨のなかを両手できっちり背広の前を閉めて走っていった、というエピソードが綴られている。そして彼女の夫は書店に勤める優れた知識人であったけれど、下級鉄道員の家庭に育ったという出自であったということも。
☆わたしたちの国では、２０年前から誰もが傘を持っている。なのに格差は広がるばかり。私事ですが、父の日に娘から英国紳士が持つような傘をプレゼントされた。でも失くしそうなのでまだ使っていない。さて、この89号が出る頃は、参院選も終り、梅雨も明けているのでしょうが…。　
　　　　　　　　
<strong>(２００７年８月『街から』８９号)</strong>

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         <link>http://www.machikara.net/event/2008/05/post_16.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Fri, 09 May 2008 23:01:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>高田豊と石川三四郎</title>
         <description>高田豊と石川三四郎　本間健彦

★高田豊が若い頃、フランス語の個人教授を受けた石川三四郎は「私が初めて自然と言ふものに憧憬を持ちはじめたのは、監獄の一室に閉じ込められた時のことである」という文章を書いている。それまでは自然というものに対して親しみを感じ得なかったのだが、「獄の一室にあって以来は庭の片隅のすみれにも愛恋を感じ、桐にも花のあったことを知り、其の美しい強い香にも親しみを感じたやうな理由で、自然と言ふものに深い感慨を感ずるようになったのである。」と。そうして石川三四郎は出獄すると戦前の社会主義者やアナーキストとしては珍しい＜半農生活者＞を志す。そんな石川の思想と生き方をかつて転向と批判した人もあったようだけれど、それは貧しい思想で、その答えはすでにでている。
★小生は幸にも獄中体験はないけれど、最近は目白の編集室の狭いベランダに置いた幾鉢かの草木に毎朝水差しするのが日課となつた。水をやると草木の歓ぶ表情が伝わってきてこちらの気持ちも嬉しくなるからだ。単に植木いじりするじいさんになっただけのことなのかも知れないが、＜シャバという獄＞からそろそろ出獄するトシになりつつあるのかな、と思ったりもする。
★わたしたち現代人は都市と産業社会の中で生きるしか術を知らない者たちが大半を占めているといっていい。格差社会の歪みは、都市と産業社会の歪みの露呈に過ぎない。烏籠で育てられた小鳥は籠から出ても自然の中で生きられないという。富国強兵を目指した日本の近代に淪落の青春期を過ごした高田豊の「五月の雨晴れ夕さびし…」と記した小詩の心境がむしろ懐かしいのはなぜだろう？　
（２００７年６月『街から』８８号）
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         <link>http://www.machikara.net/event/2008/05/post_14.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Fri, 09 May 2008 18:48:15 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>フォークソングの吟遊詩人・高田渡　</title>
         <description><![CDATA[<strong>フォークソングの吟遊詩人・高田渡　（文・本間健彦）</strong>

<strong>タカダワタル的ライフスタイル再考</strong>

　世代論は好きではないけど、日本的社会に長年棲んでいると、世代というムラ社会も存在して、ある世代に属していない他の世代が村八分的な心理に追いやられる（もしかしたら自分で追いこんでいるだけなのかも知れないが）といったシーンも少なくない。たとえば、私は、フォークシンガー高田渡のファンではない。もっと正確にいえば、高田渡のレコードを熱心に聴きこんだことも、ライブを聴きに行ったこともない。これは単に高田渡の歌をよく聴いた世代に属していなかったという理由に過ぎないのだけれど、なんとなく日本的な文化現象に自分もはまっていただけなのかと、反省したりして寂しくなった。いい音楽に、世代とか、ジャンルとか、新しいとか古いとかなんて関係ないからだ。
　もちろん、高田渡の名前は知っていた。６０年代末から７０年代初期の時代は、私にとって特別の想いいれがあったから、あの時代の空気と気分を一杯に詰め込んでいた高田渡の唄は別に耳を傾けなくても聴こえてきた。１９６８年、１９歳のとき、高田渡は『自衛隊に入ろう』という唄でデビューした。こんな詞の曲である。
  自衛隊に入りたい人はいませんか／ひとはたあげたい人はいませんか／自衛隊じゃ人材をもとめてます／自衛隊に入ろう　入ろう　入ろう／自衛隊に入ればこの世は天国／男の中の男はみんな／自衛隊に入って花と散る
日本の平和を守るためにゃ／鉄砲やロケットがいりますよ／アメリカさんにも手伝ってもらい／悪いソ連や中国をやっつけましょう　
この曲はいろいろ物議をかもし話題を呼んだ。防衛庁から電話がかかってきて「ぜひうちのPRソングに使わせてくれないか」と申し出があったという。ところが、すぐあとに断りの電話も入った。ある組合の会合に呼ばれて、この唄をうたったら、「なんでこんな自衛隊讃歌を歌うんだ」と野次を浴びた。放送禁止曲にもなった。
　ちょっと時代背景をふりかえっておきたい。ちょうどベトナム戦争の末期でアメリカではベトナム戦争反対の運動が盛んになってきていた。日本でも大学紛争がいくつもの大学で起きていた。新宿の西口広場では若者たちのフォーク集会が盛り上がり、挙句の果ては機動隊に一掃されている。だが、自衛隊の存在は影が薄かった。今のように海外派兵などできる状況ではなかった。本気で「自衛隊に入りたい」などと志願する者は、都市の青年にはほとんどいなかったのではないか。それゆえ、自衛隊が大キャンペ−ンを繰り広げていたようで、高田渡は、なんとその宣伝文句を引用して、この曲を作ったというのだ。
  このころ台頭した日本のフォークソングは、プロテストソングとして脚光を浴びていたことを思い起こせば、そのジャンルの歌手のデビュー曲としては異色であり大胆不敵だった。当然の話、彼は、この曲を「反戦歌」「反軍歌」として創り、歌ったのだ。だが、この種のアイロニーは、白か黒かはっきりさせないと落ち着かない日本人には真っ当に理解する人は少ない。左右両翼から無粋な攻撃を受けやすい。でも、彼は歌いつづけた。
  しかし、近年、高田渡は、このデビュー曲を、「この歌の役割は終った」と、歌わなかったという。これは正解だろう。今日のようなネオ・ナショナリズムの勃興しつつある状況では、アイロニーなど掻き消され、「自衛隊ＰＲソング」になりかねないという不安があったからと思われる。

  高田渡は、１９４９年１月岐阜に生まれた。４人兄弟の末っ子だった。父高田豊は出版社に勤務していて、詩人でもあったという。母親は、渡が８歳のときガンで死去。その後、父子一家は上京し、下町の深川で暮らした。上京後、父親は労務者等の肉体労働に従事するようになった。父親は、夕方、帰宅すると、近所の一杯飲み屋に出かけ酒を呑んだ。渡は父に同伴し、横で晩飯をたべた。その父親も、渡が１８のときに死去。渡は、一時期、九州・佐賀の親戚に預けられ、当地で商業高校に入ったが、すぐに東京へ舞い戻った。そして新宿・若松町のぼろアパートに住み、昼間は印刷会社へ勤め、夜は定時制高校へ通った。（自伝『バーボン・ストリート・ブルース』より抜粋紹介）
  前述したように、高田渡は１９歳の年に、『自衛隊へ入ろう』という自作の唄でフォークシンガーとしてデビューしている。（１９６８年　第３回関西フォークキャンプ［京都］に出演）。年譜を見ると、それは単身上京し、自活を始めた翌年のことなのだ。このような状況の中で、あのデビュー曲が創られ歌われたことを考えると、果たしてあの唄は「反戦歌」
  「反軍歌」だったのだろうかという疑念も湧く。高田渡の意図をねじまげて解釈しようとしているわけではない。彼が「反軍歌」を創ったことを疑うつもりはない。だが、そのころの高田渡の心の中に「今のおれの状況は、自衛隊にでも入らなければ道が拓けないのではないか？」という気持ちが滓のように澱んでいなかったとは言いきれまい。日本中「中産階級」ばかりになった、といわれた高度成長時代だったけれど、その網から抜け落ちた少数派におれは属している、そんな思いが当時の高田渡にはあったのではないか。『自衛隊へ入ろう』という唄にこめられたアイロニーには、そんな複雑な思いや反撥もあったのではないか。そういう連想をしたのは、後年、高田渡が、連続射殺事件で死刑の執行を受けた永山則夫の詩を２篇（「手紙を書こう」「ミミズのうた」）を持ち歌にしていることに気づいたからだった。その一篇、「ミミズのうた」には、＜目ない　足ない　おまえはミミズ／暗たん人生に／何の為生きるの＞という詩句がみとめられる。また、「手紙を書こう」には、＜書いたら少しは／望みも湧いて／明日も恐がらなくとも／良いだろうに＞…そんな詩句がある。永山則夫は、他の著書同様、これらの詩も獄中で書いた。つまり、死刑囚の身になって文の才能が開花した。彼は、そのことを著書『無知の涙』で悔いているが、手遅れだった。
　高田渡が、永山則夫の詩を自分の唄に加えたのは、境涯に共感するものを感じたからであろう。ただし、高田渡は、永山則夫にはならなかった。それは、高田渡には、唄が、音楽があったからだろう。
　フォークソングは、ジャズやロック同様にアメリカからの輸入音楽である。フォークソングの一分野、プロテスト・ソングも同様だった。フォークソングとロックは、その時代の日本の若者を２分したポップ音楽だった。高田渡も、時代の子の一人としてブ−ムの輪に加わった。しかし、高田渡は、デビュー曲からすでにそうだったように、通り一遍のプロテストソングやカバーのフォークソングを歌うのではなく、初めから自分の唄を歌いつづけてきた。自作の唄だけでなく、金子光晴・木山捷平・三木卓・山之口貘・谷川俊太郎・ラングストン・ヒューズ等、国内外の詩人たちの詩に曲をつけて歌っている。さながら吟遊詩人という感じだ。
　フォーク・ブームは、とっくの昔に終焉している。当時のフォークの仲間たちの中には、その後ミュージシャンとして成功し“ビッグ”になっている者もいるが、大勢の者が姿を消している。高田渡は、“ビッグ”にもならず、消えもしなかった。そういう生き方が貫けたのは、本人が語っているように「僕は、死ぬまで歌い続けるのが歌い手だと思っている。歌わなくなったときが終わりだ。」という信念があったからだろう。
　音楽関係者の間では、８０年代には「ねこのねごと」（８３）というアルバムを一枚しか出さなかった高田渡に対して、「沈黙の１９８０年代」という評価があったらしい。それに対しご本人はこう述べている。「僕は沈黙など一度たりともしていない。だいたい十年間も沈黙していたら、食えずにとっくに死んでいるはずである。１９８０年代という時代は、僕がライブに専念していた時代だ。一年の半分以上は、ライブで全国各地を回っていた。距離に換算すれば、たぶん一年間で日本を二周ぐらいしていると思う。ただし、ギャラは安かったから、日本を二周しても年収は普通の月給取り以下だっただろう。この時代、ライブに明け暮れていたのは、ライブをやっているほうがおもしろかったからだ。」（『バーボン・ストリート・ブルース』より）
　高田渡の８０年代は、全国津々浦々を回る、「吟遊詩人」の時代だったのだ。先年、このような高田渡のライブ行脚を描いた『タカダワタル的』というドキュメンタリー映画が製作・上映され、渡ファンを喜ばせた。この映画にちょっと面白いシーンがあった。その日のライブの場所は東京・青山なのだが…。そのときの語りのさわりを紹介しておこう。
「ええ〜、今日は、あたしには似合わない場所でやらしてもらってます。」（笑）「うちの奥さんが言うわけです。あんた、青山なんかめったに行くことないんだか行っといでと…。」（爆笑）「ええ、それでボクは三鷹の方に住んでますので、家を出るとき吉祥寺あたりでしっかりと飲み食いしてきました。こちらで飲み食いしたのでは、はっきり言いますと、当たってしまうような気がしまして…。」（爆笑）「ええ〜、少しの時間ではありますけどやらしてもらって、さっさと帰ります。青山とか赤坂とか、この辺にはろくな奴いませんから…。ほとんど普通じゃないからネ！」（大爆笑）そんな落語みたいな語りだった。このときは歌っていないが、高田渡は、「銭がなけりゃ」という唄で、＜東京はいい所さ　眺めるなら申し分なし　住むなら青山に決まってるさ　銭があればネ！」とも歌っている。
　高田渡は、青山を東京の象徴としてとらえ、自らの東京観・街観で語っているのだが、これは彼の人生観にも通じているのである。

　　　　　　　　　　　　　　　　　（２００５年９月『街から』７８号）
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 15:49:04 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>ミニシアターの愉しみ方</title>
         <description><![CDATA[
<strong>ミニシアターの愉しみ方（本間健彦）</strong>

<strong>暗闇の中で他者と時代を共有する密かな愉しみ</strong>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

　東京の街にちょっとしたミニシアター・ブームが起きるのは八〇年代に入ってからのことだったと記憶する。すでに映画の斜陽化が喧伝されていた。何処の街の中心地にも＜娯楽の王様＞として長らく君臨してきた映画館が将棋倒しみたいに廃館している。そんな時代に、選手交替して登場したのがミニシアターだった。
　ミニシアターは、客席数１００席前後の小さな映画館である。当たり前の話だが、ただ小さい映画館ということだけを売り物にしていたわけではない。座り心地の良い椅子。観やすい客席の配置。入れ替え制。いい音響設備。カウンターバーなどを設けたオシャレなホール。きれいなトイレ。そういう点に気を配ってきたのがブームを呼んでいた頃のミニシアターの特色だった。メーンターゲットは、高学歴の若い女性たちだという。彼女たちはお気に入りのブティックにでも行くような気分で、ミニシアターに出かけているのかも知れない。
　上映される作品はといえば、新聞広告などに何段か抜きでど派手に宣伝しているハリウッド映画ではなく、ヨーロッパ製の映画が主力で、作品の内容も現代人の心の襞をテーマにした芸術的な映画が多いという傾向。近頃の若い人たちは本を読まなくなったとはよく聞く話だけれど。ミニシアターの観客は、小説を読むような感覚で映画を鑑賞しているのかも知れない。そんな印象があった。
　ところが映画界の状況は、斜陽なんてどこ吹く風って感じで、さらに進化する。シネコンという恐竜・怪獣まがいの呼び名の映画館が出現するのだ。ご存知の方も多いと思うが、シネコンとはシネマ・コンプレックスの略称で、要するに５館とか１０館とか複数の映画館が一同に集まったビル内の映画館街。最先端の再開発ビルなどに誕生している新業態映画館である。シネコンは１館、１館の規模も大きくなく、ファッショナブルな映画館として造られているので、ミニシアターを集めた新しいタイプの映画館と思っている人もいるみたいだが、内容は全然異なったもの。喩えていえば、スターバックスの店と単独店のコーヒーショップとの違いである。もっとも０３年４月にオープンした話題の六本木ヒルズのシネコンには、１館、ミニシアター系の映画館があるという。不勉強でまだ見学しいていないので未確認情報だけれど、たぶんシネコンの中に１館だけ、ミニシアターで上映されているようなマイナーな作品を専門にかける映画館を造ったのであろう。
都市は、資本の多角化・野合化の戦場である。そんな現象にいちいち驚いていては生き抜いていけない。必要なことは、自分の目と感性で自分にとって好ましいものを見つけ選択することである。現象だけで判断していたのでは見えるものしか見えない。肝心なのは、その作り手や担い手のビジネス作法・考え方・生き方を見ておくことである。今回見て回ったミニシアターは恣意的に選んだ数館に過ぎない。けれども、ミニシアターの担い手からの話を通し、ミニシアターの特性と現況を知ることができた。それをご紹介しよう。 
　＊

　＜ポレポレ東中野＞
　０３年９月、ＪＲ東中野駅北口駅前に「ポレポレ東中野」というミニシアターがオープンした。だが同館は新規開業したわけではない。映画フアンの方ならご存知と思うが、実はインディーズ映画の拠点として親しまれてきた「ＢＯＸ東中野」が、その前身だからである。同館は去る４月に閉館したのだが、館名を変え再興されたのだった。閉館の理由は、テナントとして同地のビル地下１階に入居し「ＢＯＸ東中野」の運営にあたっていた会社の家賃の滞納が限度を超えてしまったためといわれる。
　再興したのは、同ビルのオーナーである本橋成一。彼は著名な写真家であり、近年は「ナージャの村」「アレクセイの泉」の映画監督としても知られる人だ。本橋は、閉館した映画館を自身がオーナーとなって復活しようと決意した思いを次のよう語っている。
「僕の実家はすぐ近くの山手通りで小さな本屋だった。ところが道路の拡張で立ち退きになり、その補償金でここの土地を買い、この７階建てのビルを造ったのですね。その時、ＢＯＸ東中野の代表だった代島さんが、地下１階を借りて映画館を造りたいと言ってきた。周囲はみんな反対だった。映画館にするためには２層分地下を掘る必要があり、建築費が１億円高くなること。もし映画館がダメになった場合、他の業種のテナント貸しが難しいこと。などが理由でした。でも、僕は映画の黄金時代に少年期を過ごした“映画大好き人間”なんですね。街に一軒は小さな映画館があるべきだ！という主張もしてきた。だから、みんなの反対を押し切って映画館を造ったんですよ。」
　本橋にとって、小さな映画館は＜街の灯＞だったのかも知れない。それゆえ、ミニシアターの経営の大変さは知り抜いていたが、その灯を燈しつづけようと覚悟したのだろう。
　本橋は再興するにあたって、支配人を公募しているが、約４０人の応募者の中から抜擢した大槻貴宏は、このあとに紹介する下北沢のミニシアター「トリウッド」の経営者だった。つまり掛持ちで「ポレポレ東中野」の支配人となっているのだ。その狙いについて本橋はこう説明している。「映画製作はビデオの登場で非常に幅広くなった。山形映画祭などでも、７割はビデオ作品ですよ。大槻さんのやっている「トリウッド」は、ビデオで短編映画を作っている若い人たちの作品を対象にしたミニシアターなんですね。大槻さんに両館をみてもらうことで、「ポレポレ東中野」がステップ・アップを目指す若い映画作家たちの登竜門にもなればと思っています。」

＜ラピュタ阿佐ヶ谷＞
「ラピュタ」は９８年の暮れにオープンしている。ＪＲ中央線阿佐ヶ谷駅北口の飲み屋街と住宅地の境界のような立地に誕生したこの映画館の建物は西洋の童話の本にでてくるような意匠と佇まいでひときわ人目を惹く。オーナーの才谷遼はその裏手の貸しビル内でアニメ関連の出版社を経営している。
そこは元アジア人相手の木造の木賃宿だった。敷地面積５５坪。事情があって持主がその土地を手離したいと声をかけてくれた時、才谷は、映画「もののけ姫」の解説本を出版して３６万部も売れる大ヒットを飛ばし、思いがけず大金が転がり込んでいた。で、その土地を買うことにした。さて、その土地で何をやろうかと考えた時、才谷はすぐに映画館をやろうと思ったという。たぶんそれが彼の夢だったのだろう。
「ラピュタ」のある建物は、地下１階地上３階建てで、劇場（Ｂ１）、ホール・ロビー（１Ｆ）、映画館（２Ｆ）、レストラン（３Ｆ）といった施設で構成されている。主役格の「ラピュタ」は客席数５０席の試写室規模のミニシアター。自社ビルで、全館直営なのだから、流行のシネコンにしてもよかったのだろうが、１館というところが何とも奥床しい。ミニシアタ−の経営の困難さを覚悟していた才谷は、たった１館５０席の映画館の経営を何とか維持していくために、そのような施設構成を選択したのだという。
　才谷遼は、日大芸術学部映画学校を卒業後、一時期映画の仕事に従事していた。岡本喜八監督の不肖の弟子だったという。だが映画では食えなかった。結婚する際に映画界から足を洗い、アニメやマンガの編集の仕事を手がけるようになった。彼のミニシアターに賭ける情熱はおそらくそういう履歴から発したものなのだろう。
　ミニシアターには洋画の上映館が多いのだが、「ラピュタ」は５０年代から６０年代半ば頃までの日本映画を中心にした上映が行われてきた。きちんと人間を描いた水準の作品が多いからだという。「斜陽化したのは古い日本映画の産業システムで、あの頃の日本映画を観たいというお客様は遠方より阿佐ヶ谷まで足を運んでくれますよ」と才谷は手ごたえを、そのように証言している。

＜トリウッド＞
　下北沢にある「トリウッド」は、９９年にオープンしている。ファッションビル２階の映画館で、客席数は４７席。情報誌「ぴあ」のＣｉｎｅｍａを見ると、オフシアターに分類されていて＜短篇映画館＞というキャッチが付けられている。
　もう少し分かりやすい括り方をすると、＜若い映画作家たちの作品上映＞を打ち出しているミニシアターと位置づけることができる。上映の方式は２通りあって、ひとつは館側が選んでプログラムした作品の上映であり、もうひとつは時間貸しの上映というコースである。ちなみに後者の貸し出し料金を見ておくと、１時間のワク貸しが原則で、入場料金が５００円の場合は平日１万円、土日及び祭日は１万５千円だという。作品は１６ミリのフイルムでもビデオ作品でもいいし、ドキュメンタリーでも劇映画でもいい。ただし、５０分以内の作品というのが条件とか。短篇映画館という触れ込みは、そういう点に由来しているのだろう。
前述したように、同館の主宰者大槻貴宏は、昨年９月に「ポレポレ東中野」の支配人として迎えられている。つまり２館を掛け持ちで運営しているのだ。まず、「トリウッド」のようなシステムのミニシアターを作った理由について、大槻は次のようの説明している。
「映画は斜陽とかいわれてきましたが、映画を創りたいという若い人たちは実は増えているんですよ。ビデオ技術の発達によりビデオで映画が撮れるようになったことも大きい。つまり映画は今や誰にでも創れる。特別なものじゃないんですね。問題は映画を創ってもそれを上映する場所がないことだった。そうだ、ライブハウスのような映画館を造ろう」と、そういう発想から「トリウッド」は生まれたのである。立ち上げには約４千万円を要したという。ベンチャー企業支援の企画が通り、通産省からの助成金が受けられたことで信用が付き、銀行から融資が受けられたので実現したという。
　大槻は、「ポレポレ東中野」の支配人を兼務した理由については、こう語っている。「若い映画作家たちにとってトリウッドは第一歩を印す場所なんですね。腕を上げトリウッドで観客を一杯にできたら、次はポレポレ東中野に挑戦してみよう。そういうステップアップできるシステムが是非作りたかったのです」。大槻は現在３６歳。大学経済学部を卒業後、アメリカの大学へ留学。映画学科の専門課程で２年間映画プロデュースを学んでいる。ミニシアターの進化は、そういう新世代の映画人により促進されているのだ。

　＜アツプリンク・ファクトリー＞
　「アップリンク・ファクトリー」（以下ファクトリーと略）は、渋谷区神南の何の変哲もないオフイスビルの５階にある。ビル入口のあまり目立たない置き看板を見逃すと同館を探すのは厄介になる。見知らぬオフイスビルにまぎれこんでしまったかなという不安に駆られる。だが同館に一歩足を踏み込むと世界は一変する。カウンターバーを兼ねた受付があり映画関係のチラシや雑誌や単行本の無造作に置かれたコーナーがある。客席数は５０席。形態も材質も異なる不揃いの椅子が並んでいる。ソファーやマッサージ台みたいなものも置かれている。知る人ぞ知る隠れ家的な映画館。そんな感じのミニシアターである。
　このファクトリーは、下北沢のトリウッド同様、「ぴあ」ではオフシアターに分類されているが、普通の映画館のように映画だけを上映しているわけではない。作家のトークショーやミニ・コンサートなどのイベントも行われている。「映画は定番プログラムとしてはレイトショーの枠で設定しています。うちが配給している内外のインディペンデント系の作品が中心です。それを軸に様々なイベントを組んでいます。」（同館プロデュース担当・倉持政晴の話）。映画は新作・旧作で若干異なるということだが、１２００円・ワンドリンク付きがスタンダード料金。イベントのトークショーやコンサートは、２〜３０００円・ワンドリンク付きという設定が多いという。館側の意向に沿えば、自主製作の映画上映等のスペース貸しもしている。基本料金は平日は１時間１万円。週末・土日・祝日は同１万５千円。プロジェクターなど機材の貸し出し料金は別途だという。
　オープンは９７年。主宰の浅井隆は、元劇団天井桟敷の演出家だったという経歴の人だ。寺山修司が亡くなり、劇団が解散すると、浅井は映画の配給会社を始めた。近作の配給作品では、イギリスのデレク・ジャーマン監督の未公開作品「ウォーレクイエム」や、黒澤清監督の「アカルイミライ」（同社製作作品）などが話題を呼んでいる。「アットホームな感じで、お客さんにリラックスして映画やインベントを愉しんでもらえる場所にしていきたい。それがファクトリーの方針ですが、お客様のダイレクトな反応を見聞できるアンテナショップとしての機能も見逃せません。」と倉持はファクトリーの特性を語っている。

 今や映画は映画館でしか観られないという状況ではない。テレビでもレンタルビデオでもパソコン（ＤＶＤ）でも観ることができる。実際に映画を映画館で観ない映画フアン人口は統計がないだけの話しで増えているに違いない。巷間喧伝されてきた映画産業斜陽説は、喩えていえば、どこの家にも家風呂ができて町の銭湯が立ち行かなくなったという事例に似ていなくもない。そういう状況下でミニシアターが生き続け進化しているのはなぜだろう？端的にいえば、その小さなメディアでは、マスメディア的な映画館では観ることができない映画を観ることができ、時代のビビッドな空気に触れることができるからではないか。ミニシアターには、今もなお他者と暗闇を共有する密かな愉しみが健在なのである。

（2004年1月『街から』68号）
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 15:41:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ミニコミ書店の店主たち　</title>
         <description><![CDATA[<strong>ミニコミ書店の店主たち　（文・本間健彦）　</strong>　

<strong>山椒は小粒でもぴりりと辛い
ミニコミ書店の本を買う愉しみ方</strong>
　　　　　　　
 前号からミニコミ書店の方にブック・レビューを書いてもらうことになった。さすがに本にこだわる目利きたちの一味違う書評なので「面白い」と評判がいい。気をよくして東京でも稀少なミニコミ書店の中からもう何人かの方に原稿を依頼しようと声をかけたら、「うちはミニコミは扱っていないので…」と断わられる店もあった。「ミニコミなんて、まだ作っている人がいるの？」と、まるで真昼にさまよい出た幽霊でも見るような目付きでこちらをうかがう人もいた。要するに＜今時、ミニコミもミニコミ書店もあるわけないじゃないの。時代遅れな奴だなあ！＞と呆れられたのでありましょう。
　たしかにミニコミは、いまや絶滅危惧種なのかもしれない。簡単にメールが飛ばせるし、ホームペ−ジだって作れる。わざわざ乏しいお小遣いを投じてフリーペーパーや小冊子を作る必要はないのだろう。時代によってメディアは変わる。それは仕方がない。問題はミニコミ精神までが失われてしまったのかという点なのである。
　では、ミニコミとは、何だったのか。ミニコミ精神とは？それについてだいぶ昔に筆者の書いた文があるので、その一節をちょっと長くなるが紹介しておこう。
　　
　　ミニコミについての一般的な概念は、マスメディアに対する若者たちの小さなメディアという解釈ではなかったかと思う。しかし、彼らは自分たちの小さなメディアの編集や発行のみにこだわっていたわけではなかった。むしろ彼らの何よりの関心事で重大事は、どうしたら既成の文明社会に全面的に与することのない自分の生き方を構築できるかという点にあった。そしてその第一歩を、まず自分たちの棲んでいる街や町の中で、自分たちの生活と文化を少しずつ着実に形成していこうという生き方をそのとき始めたのである。つまり、彼らにとってミニコミとは、そのような生き方の表明や確認の場であると共に、遊び心を愉しむ媒体としてとらえられていた色合いが強い。
　　ほんの一例をプロフイールふうに紹介しておくと――。吉祥寺には、『名前のない新聞』という週刊のフリープレスがあった。街の中でどのような生き方をすべきがベストかといったテーマに毎号取り組んでいた。同紙は、これぞカウンター・カルチャー世代のタウンジャーナリズムといえるミニコミだったと思う。下北沢では、通称マンジエロと呼ばれていた長髪の青年が出していた、『古新聞』というワラ半紙にガリ版刷りのミニコミがあった。「先週は雨の日に始まって雨の日で終わった感じですが、その間ずっといい天気だったので、ぼくは、散歩と洗濯に精を出したのです」そんな調子で自分自身や仲間たちの生活の綴られた『古新聞』を読むのはあのころの私の愉しみのひとつだった。静かな住宅街の石神井公園の町には、『蘇生』など十数種のミニコミがあって、日曜日には公園でフリーバザールやフォーク集会を開いたり、都市コミューンを創ろうという運動なども展開されていた。新宿の『模索舎』はミニコミの流通機構づくりをやっていたし、『京都フリータウン』は第一回ミニコミ会議を京都で主宰し、ミニコミの全国ネットワークづくりをめざしていた。大阪の『モリスフォーム』ではミナミの飲み屋ビルの中に編集室兼フリースペースをもうけ、集まって来る若者たちにタダでコーヒーを飲ませていた。
　まあ、そんな具合の展開で、彼らにとってミニコミとは、単なる小さなメディア創りというより、自分たちの生き方や場所の解放と獲得運動だったという側面が極めて強かったことがおわかりいただけるだろう。だから、その後彼らがミニコミづくりをさっさと放棄し、そのことでマスコミなどから若者文化のアダ花といった評価がされても、私は聞き流すことができた。彼らはどこかの街や町でおそらく自分たちの生き方を始めているにちがいない、と思っていたからだ。
（本間健彦著『街を創る夢商人たち』三一書房）

  ご紹介した一節は、１９７０年代初頭の＜ミニコミ・ブ−ム＞といわれた時代のミニコミについて、その１０年後位に振り返って考察した文章である。当時、つまり８０年代にはすでにミニコミは過去の若者文化現象として忘れ去られようとしていた。だが、ミニコミ書店は健在だった。大型書店と新古書店という業態の安売り本屋の台頭により、街の小さな本屋は軒並み廃業に追い込まれているという。けれどもミニコミ書店は健気に生き抜いている。もしかしたら、ミニコミ書店は、都市という砂漠の中のオアシスなのかもしれない。だから生き続けられるのではないか。久しぶりに数軒のミニコミ書店をのぞいてみて、そんな感想をもった。

 「模索舎」新宿御苑正門前の横丁にあるミニコミ書店の老舗。７０年１０月オープン。当初は「シコシコ」という店名の喫茶店だった。この店を始めたのは、大学闘争の時代にノンセクト団体の旗頭だった五味正彦。＜就職しないで食っていくにはどうしたらいいか？＞五味はドロップアウト派の仲間と大真面目に語り合った。彼は＜新宿に溜まり場をつくろう＞と提唱し、仲間の中から五十名の出資者を募り、５００万円を集めた。地下鉄工事のバイトなどで稼いだ金だったという。この資金で五味は店を作った。だが、溜まり場の飲食店は一年足らずで経営難に陥った。活路を開くため、喫茶店を縮小し、「ズッコケ書房」という本屋を併設した。しかし、取次店や出版社に本の仕入れに行ってもまともに取り合ってもらえない。理由の一つは店名だった。シコシコもズッコケも当時の学生の流行語だったのだ。ならば、と暗中模索して、「模索舎」と改名。店名変更と同時に飲食店を辞め、書店一本でいくことにした。すると折からのミニコミ・ブームに乗り、「模索舎」はたちまちミニコミの拠点になった。また、各党派の機関紙が週刊誌のように売れたといわれる。
　ところが、「好事魔多し」という事態が生じた。７２年７月、模索舎は、永井荷風作と伝えられる春本『四畳半襖の下張』を売っていたという猥褻文書販売容疑で警視庁に摘発され、代表の五味正彦が逮捕されたのだ。従業員にも指名手配されたものがいた。後に小出版社を対象にした取次店「地方・小出版流通センター」を興し代表になる川上賢一である。
「猥褻でやられたが、警察の狙いはミニコミ書店の弾圧だった」と五味は語っている。
　この事件で五味は、以後六年間裁判闘争を展開。裁判の終了した７０年代末、「もう、やるべきことはやったな」と、店を継続したいという後輩に経営権を無償で譲渡し、模索舎を辞めた。条件は、「勝手に閉店しなこと」。その一点だけだったという。
　さて、現在の模索舎のことだが。店の雰囲気は昔とほとんど変わっていない。例えば、書棚の分類を見ると、＜思想＞＜人権＞＜部落解放＞＜戦争責任＞＜在日＞＜中国・台湾＞＜朝鮮＞＜反日＞＜天皇制＞＜死刑＞＜政治党派＞といった項目が目を惹く。平台には各党派の機関紙やミニコミ誌（紙）が山積み。機関紙は今も主力商品だそうで、公安関係者もいいお得意さんとか。ロングセラーを訊ねると、『救援ノート』（救援連絡センター刊　５００円）という小冊子の名が出た。オビに「逮捕される前に読んどく本」とある。６９年に創刊され、現在７刷り。ここ３年間だけでも４５０冊売れたという。
　現在、共同経営しているメンバーは男２人、女１人の３人。紅一点の綿貫真木子に本屋で働く歓びを聴くと、「面白いミニコミが創刊され、それがうちにも納本されると、役得でぱらぱら読んじゃうんですが、そういうときはすごく嬉しいですよ。そのミニコミが売れたときは本屋としてもの凄く嬉しいですね！」という答え。こちらも嬉しくなった。

　「タコシェ」は、ＪＲ中野駅前の有名な商店街「ブロードウエイ」内３階にある１０坪たらずの本屋。小さい店なのに、本だけではなく、ＣＤ・ポストカード・イラスト・絵・雑貨類などは所狭しと並んでいるので、玩具箱を覗くような楽しさがある。７０年代の漫画全盛期にシリアスなマンガ雑誌『ガロ』を発行していた青林堂が９３年６月、高田馬場で開店したのが前身だという。品揃えが雑多の割りに独特のカラーが認められるのは、店のポリシーがしっかりしているからだろう。同店の客には「インディーズ（自主制作作品）のＣＤや原画の掘り出し物を探しに来る者が多い」といった評判も聞く。「本についていうと、うちは古本屋ではないのですが、古い本でも読み直したい本は積極的に仕入れて置くようにしています。また、作家からの委託販売も受け付けています」（代表・中山亜弓）

　「ナワプラサード」西荻窪南口にある＜ほびっと村＞は、７０年代カウンターカルチャー世代の聖地（メッカ）として知られてきた。エレベーターもない４階建てビルが、その＜村＞の所在地。１階が八百屋と家具の工房、２階がカフェ・レストラン、３階が本屋と学校というライン・アップで、＜村＞は形成されている。各店独立の営業だけれど、創業時（７６年）のメンバーは先年亡くなった詩人・山尾三省一派のヒッピー仲間で、新宿や国分寺などから流れて来て、この地に＜村＞を創ったのである。
「ナワプラサード」を始めたのは、通称・樵夫（キコリ）。精神世界系統の本を集めた本屋というカラーを打ち出し、山尾三省の『聖老人―百姓・詩人・信仰者として―』など、出版もしてきた。その頃の同店は独房みたいな雰囲気の書店で、俗人を寄せ付けないといった印象が強かったのだが…。今回、取材で久しぶりに立ち寄ったら、明るいお洒落な雰囲気の本屋に変身しているのでびっくりした。店主も９４年４月から高橋ゆりこに代わった。高橋は以前、翻訳の仕事をしていて、この店に客としてよく来ていた。キコリに「やってみない」と代替わりの話をもちかけられたとき、１年ぐらい考え、２代目店主を引き受けたという。「基本的な方針は、キコリさんのときと同じです。ただ一般の方にもわかってもらいたいので、＜生まれてから死ぬまでの間に、人間が色んな諸問題に遭遇するとき知性的に対処できる本＞を集めた、＜役に立つ本屋＞を標榜しています」と高橋はいう。
場所柄、女性客も多く、いまやお孫さん連れの３世代の顧客も出てきているとか…。
　同店が発行している最近の情報紙の編集後記に、高橋ゆりこは、こんなお知らせを書いている。「８月より、ナワプラサード・ロングセラーズ・コーナーを、店内に設けました。時代に翻弄されず、時代を超えて求められている本たちです。このような本が売れていることは、私たちの喜びです」（『ほびっと村学校』０９．２００３）。

　「ＯＮＥＬＯＶＥＢＯＯＫＳ」下北沢は、近年＜劇場街＞、日本版のオフ・ブロードウエイとして売ってきた。若者の街だ。同店は良質の小さな本屋を志し、この街に開店して二十年になる。七坪ほどの店内は、シャツ・帽子・マフラー・装飾類などのファッション洋品で大半を占められていて、本屋に入った感じではない。よく見ると、両サイドの書棚にはなかなかセンスのいい本が品揃えされているのだけど、行く度にそのスペースが小さくなっている気がする。「看板に偽りありでお恥ずかしいのですが、本が売れないので、そうなってきています。若い子たちが“ワアー、ステキなお店”とかいって大勢来てくれるんですが、本には見向きもしない。若い人が本を読まない社会って未来がないんじゃないかな。寂しいですね」同店を担当して十年になるという店長・蓮沼英幸の述懐である。

　「書肆アクセス」本の街・神保町に所在。同店は前述した地方・小出版流通センターの直営店。76年にお隣の小川町にオープンした「展示センター」が同店の前身だという。同店の特色は、親会社が現在扱っている全国の小出版社（約1000社）が出版している本を軸とした品揃えができることだろう。大手の取次店が扱わない本だから、当然どんな本でも揃うという触れ込みの大型書店でもない本が、ここでは手にとり、購入できる。書棚を眺めると、地方別の分類がされている。「地方の資料を求められる大学の先生や研究者の方がよく見えますね。それと地方出版の歴史書やガイドブックを探しに来るお客様が多いかな。地方直産の本はやっぱり情報が濃いって、評判がいいですよ」と店長の畠中理恵子は語ってくれた。啄木の歌ではないが、上野駅に故郷の匂いを嗅ぎにいくように、このアクセスを訪れている客も多いのかもしれない。

「有機本屋＝ほんコミ社」五味正彦が「模索舎」を辞めたあと、吉祥寺につくった本屋。ただし同店は、正確にいうと、「小売書店ではなく、80年以降全国各地に増えてきた自然食品販売店や自然食レストランなどに、食品関連の書籍を卸している取次店です」と五味は説明している。現在、提携している店は約50軒。店名の由来も、この書籍取次方式から命名されたのだろう。だが、店では、食品関連書以外の一般書も品揃えされ、小売もしている。なにしろ五味正彦は＜ミニコミ・小出版の生き字引＞と目される人物だから、目利きの五味が集めた本を眺めにいく愉しみもある。

（2003年11月『街から』67号）
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 15:36:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>リース地獄脱出宣言</title>
         <description><![CDATA[<strong>リース地獄脱出宣言　（文・本間健彦）</strong>

<strong>さらば、花咲か爺</strong>

　いつの間にか、この点に関しては人並みに現代人になっていたようで、リースやローンで物を購入することがごく当たり前の話と思うようになっていた。わが編集室の事例がそのことを見事に物語っていて、編集機材のパソコン、プリンター、ファクシミリ、電話に至るまで全てリースで備えたものばかり。私事に関しても同然で、家はもちろんローンで建てたものだし、その他の比較的高額のモノは大方がローンやリースで手に入れたものばかりなのだ。
　もし、ローンやリースがなかったら、購入することも使用することも間々成らないものばかりだと言っても過言ではない。自分の財布の金額では絶対に買えないものが、ローンやリースを組めば難なく入手でき使用できる。これがこの種の金融商品の手品的というか、麻薬的な魅力なのである。
　それだけではない。リースのばあいは、希望すれば新製品に簡単に交換できるというアタラシモノ好きにはたまらない魅力も用意されている。車や電気製品は、年々歳々機能アップが図られ、それを売りにしてきた。とりわけパソコンなどのＩＴ商品はバージョンアップが生命のように見做されてきたから、新製品を入手することは時代に乗り遅れないための必須条件に挙げられてきた。結論からいえば、そんなことは幻覚みたいなもので、覚めてみれば幻想に過ぎないのだが・・・。その時はすでに「後の祭り」なのだ。
　もちろん、世の中には、冷静な人、手堅い会社も少なくない。そうではあるとしても、この現代社会でローンやリースに無縁というところは極めて少ないのではないか。最新の高性能の機器などには背をむけているつもりでも、機械というものは使用していればトラブルが付きものだし、寿命で壊れたりもする。修理を依頼すれば、安くない出張費や部品交換等の修理費が請求される。それゆえ保守管理費という名の保険にも入っておかなければならない。
　修理の依頼をしたり、リース期間がようやく半分を過ぎた頃になると、セールスマンの電話や訪問が頻繁になる。「新機種に換えませんか？」という勧誘である。新機種が旧来型より（と言ってもほんの数年前の機種なのだが）いかに機能・性能が向上しているかを熱っぽく説明し、この新機種が現在のリース料に若干上乗せした価格で入手できますよ、と懸命に口説く。セールスマンはべつに詐欺師というわけではない。確かに説明の通りなのだから。ただし、リース終了期間は、また振り出しに戻り先延ばしになる。
　リース商品の“買い替え”は、冷静に計算すれば、明らかに高い買い物なのだが、こちらはもうすっかり新製品の魅力にポーッとなっているから、現在のリース料とたいして月額の支払い額が変わらないのなら、まあいいか、と安易に判を押してしまうのだ。まるで現代版の「花咲か爺」にでもなったような気分で、こちらの方がホイホイと勝手に乗ってしまっているのである。
　かくしてかつてバブルとはまるで縁がなく、したがってバブル時もそのはじけた後も一貫して貧乏だったわが編集室にも、なぜか常に小学１年生の金ぴかのランドセルみたいな各種の機具類が居並ぶという奇妙な事態が当然のように継続してきたのであった。敷衍するならば、これが、わたしたち現代人の「便利で快適な生活」が過ごせているからくりなのである。
　だが、タネの仕掛けも無い手品は存在しないのだから、やがて手品に喜んでばかりもいられない時がやって来る。私の場合、それは次のような事態だった。編集室の移転を行った時のことだ。移転といっても建物内の移動なのだが、リース物件はあくまでも借り物なので勝手に動かすことは禁じられている。連絡すると早速セールスマンがやって来て電卓を叩き見積もりを提示した。見るとべらぼうに高い。「引越しでもないのに凄く高いねえ」私は愚痴を言った。「いい方法がありますよ。こちらの電話リースはもう２年経っていますよね。でしたら、新機種に換えたらいかがですか？御社はビジネスホンですから、パソコンもファックスも連動していますので、電話の新機種を入れてくだされば、まとめて移設費はサービスできるのですが…。」セールスマンは、さもこれは耳寄りな話ですよといった口調で勧誘してきた。これまでの私なら「じゃあ、そうするかな」と安易にその話に飛び付いたのだが、この時私は応じなかった。すでに私は近い将来リース生活から足を洗う決意を固めていたからである。その理由は他でもない。《自分はバブルとは無縁に生きてきたとおもってきたが、じつは私自身もちっぽけなバブル（泡）だったのだ！》ということに恥ずかしながら今頃気づき、深く反省し、遅まきながら《さらば、花咲か爺》宣言を、まず自らに課そうとしていたからだった。
　けれども、実際はリースから決別できる状況ではなかった。いずれの機器もリース期間はあと数年残っている。カッコよく辞めるには、残額のリース料を一括返済し物件を返却しなければならない。言い値の移設料を払わなければ移設もできず、セールスマンの勧誘に乗ればリース期間はさらに伸び、墓場まで抜け出せなくなる無限地獄に落ちてしまう。つまり、外堀も内堀も埋められてしまっているのである。セールスマンはそういうこちらの窮状を知り抜いていて、慇懃に勧誘しているのだ。で、思わずカッとなってしまったのだろう。「新たなリースはもうしないよ。今リースしているものも、期間が終了したらもうリースは辞めるよ」私はそんな言わずもがなの宣言をしてしまったのである。
　その時の若いセールスマンの目と表情がなんとも怖かった。《お前はテロリストか？ビンラーディンなのか？》といった憎悪の念を露わにして一瞬私を睨みつけたからだ。幸いなことに《まだ、こいつは顧客なのだ》とすぐに冷静になってくれたのか、報復は免れたので胸を撫で下ろしたのだが…。「では、どちらにするのか。ご検討ください」セールスマンはいつもの慇懃な態度に変わり、そんな捨て台詞を残し帰って行った。
　この話には続きがあるのだが、今日のところはここまでにしておこう。

　ところで、私は先日、アニエス・ヴァルダ監督の新作『落穂拾い』を観た。この映画はパリの街角や市場に捨てられた食糧や、農村で収穫後に捨てられたリンゴやぶどう、海辺の牡蠣の養殖場から逃げ出した牡蠣などを拾う、様々な人々を描いたドキュメンタリーで、近未来の黙示録を見ているような想いに駆られた。暗い、奇妙な生活が展開されているのだけれど、なぜかホッとするような、ぬくもりさえ感じる、そんな映画だった。

（2002年5月『街から』58号）
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 15:32:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>笑いの哲人マルセ太郎追悼</title>
         <description><![CDATA[<strong>笑いの哲人マルセ太郎追悼　（文・本間健彦）</strong>　

<strong>語ることは再び愛すること</strong>

　マルセ太郎さんは、徹頭徹尾「語る人」だった。
　彼は芸人だった。芸人は語ることを仕事にしている。だから、マルセさんは語りつづけてきたわけではない。マルセ太郎さんは、舞台の上だけでなく、著書やジャーナリズムの世界でも、日常生活においても、変わることのない情熱で語りつづけてきた。
　たぶんマルセ太郎さんには語りたいことがたくさんあったのだろう。こんこんと湧き出ずる源泉のように。その話には激しい怒りもいっぱいこめられていた。それは壊れた人間、壊れた社会に対する怒りであり嘆きだった。「同じ人間同士じゃないか。もっと真っ当に生きようじゃないか」マルセさんの怒りにはそんな再生への呼びかけと激励が感じられた。
　絵を描くのが好きだったアメリカの作家ヘンリー・ミラーに『描くことは再び愛すること』という素敵な画文集があるけれど、わがマルセ太郎のばあいは、語ることが再び愛することであり、生きることだったのではないか。マルセ太郎さんが亡くなられた後、私は改めてそんな感慨を深めたものだった。

　思えば、私がマルセ太郎さんとお会いできお話の伺えたのは、たった４回に過ぎない。しかしそのいずれの時も、私にとって忘れられないひと時となった。
３年前の９８年２月、インタビュー記事の取材で狛江のご自宅に伺ったのがマルセ太郎さんとの初対面だった。その日は午後から雪になった。マルセ家の茶の間で午後一時半ころから始められたインタビューは、実はインタビューなんてものではなく、マルセ太郎さんの独演会だった。それはもうマルセさんの舞台となんら変わらなかった。インタビュアーはインタビューを忘れただひたすら話に聞き惚れていた。両１２０分のテープを３本用意していたが、全て録音しきってもまだ話は終わらない。時計を見ると七時近い。こちらはいつまでも話しをお聴きしていたかったけれど、その気持ちを押し込みいとまを告げた。外へ出ると雪が烈しく降っていたが、感動で火照った心身が気持ちよかった記憶が今もくっきりと蘇ってくる。
このインタビューは、『街から』誌の３３号と３４号に２回にわたって掲載され、多くの読者に共感を呼んだ。編集者にとっては嬉しい話だった。ところが、もっと望外の私を有頂天にさせることが起きた。ご当人のマルセ太郎さんから次のようなお葉書をいただいたからだ。

《前略　『街から』を送っていただきました。実にうまくまとめてあり、うれしく思っています。これまで私のところに取材にいらした方のものでは、あなたが一番よく書いてくれています。おつかれさまでした。》

　仮にお世辞だったにせよ、あのマルセ太郎さんからこんなお褒めの言葉を貰ったのだ。最高だった。しかし、後日冷静になったとき、あれは額面通りに受け取るべきものではないのだと思い至り有頂天になった自分を恥じた。芸人マルセ太郎は、作家の色川武大と永六輔に発見・発掘され芸人として復活したという伝説の持ち主だが、色川さんについて「あの人は元来陽の当たらない人が好きなんですよ」とインタビューのなかで語っている。けれどマルセさん自身もそういう方で、話や自作の芝居や著書でももっぱら陽の当たらない人に光を当てている。つまり、私のインタビュー記事などの評価もその線から割引きすれば、マルセさん流のあたたかい励ましだったことになる。だからといって私の歓びが半減したわけではなく、その葉書は私の唯一の勲章として大事に机の引き出しにしまわれているのだ。
　昨年８月、私は２年ぶりにマルセさん宅を訪ねた。『街から』の創刊満八周年、通巻５０号を記念してインタビュー集『人間屋の話』を街から舎で発刊することになり、その序文をマルセさんにお願いするためだった。真夏の暑い盛りだった。２年前に伺っているので道はわかりますからとお断りしたのだが、マルセさんは自転車で駅まで迎えに出てくれた。自宅に着いてからの話のなかで２日後に１０回目の肝臓ガン手術で入院するのだと聞き重ねて恐縮した。そういう状況のなかであの本の序文は書いていただいたのだった。
　その時のことなのだが、家に着くと「暑いでしょう。一風呂浴びませんか？」とマルセさんにすすめられ、私はびっくりした。むろん遠慮したが、亡くなられた後に愛娘の梨花さんにお聞きした話によれば、どうやらそれはマルセさんの奇矯のひとつらしく、梨花さんの友達が遊びに来て泊まったりしたときも、「朝飯前に一風呂浴びませんか？」とすすめて女友達を困惑させていたという。梨花さんの補足説明だと、マルセ家の風呂は別に檜風呂とかではなく、ごくありきたりの家庭風呂なのだが、マルセさんは自慢にしていたようで、休みの日にはよく風呂掃除に励みピカピカに磨きたてていたとか。風呂の話で脱線したが、この時も肝心の打ち合わせなどそっちのけで、マルセさんの独演会が繰り広げられ、夕刻までつづいたのだった。
　３度目１１月初旬、できあがった『人間屋の話』をお届けするのが目的だった。その日は次回公演の芝居の打ち合わせを劇団関係者が集ってやっていたのだが、門外漢の私もちゃっかり同席してとうとう夕飯までご馳走になった。例によってマルセさんの座興に興じてついつい長尻になってしまったのだが、実はその要因はもうひとつあった。それは茶の間と隣接する台所から奥様が次々に出してくれる韓国風の家庭料理が実に美味しかったことと、奥様の飾り気の無い大らかなオモニぶりがとても懐かしく居心地がよかったからだった。お焼香に伺った時、その奥様が大きな身体をしぼませるように何度も何度もフーッと深い溜息を漏らしていた姿が痛ましかった。
　三が日明けの４日、両国のシアターカイで開催された「スクリーンのない映画館」に出かけた。この時の３日間公演初日の出し物は、『泥の川』だった。
年頭だったので、同行した安良岡編集長と「ちょっとご挨拶してこよう」と出番前の楽屋にお邪魔した。出演前なのだから、当然挨拶だけで引き上げるつもりだった。ところが、マルセさんは「さあ、どうぞ」と私たち二人を椅子にかけさせると、待ち構えていたかのように怒涛のようにしゃべり出し、いつものように話しが止まらなくなった。「出番前なのだから、早々に引き上げないと…」とこちらは気が気でないのだが、マルセさんの話しの面白さにどんどん引き込まれてゆき席が立てない。２０分、あるいは十五分位だったのか。やがて係員が「そろそろ開演ですのでご用意を」と告げに来たので、マルセさんの開演前の独演会は幕となった。この公演後、マルセさんは１１回目の手術を受けるために岡山の病院に入院した。月末には退院の予定とお聞きしていたが、とうとう帰らぬ人になられてしまった。結局、１月４日に楽屋へご挨拶に伺ったのが、私たちにとってはマルセ太郎さんとお会いする最期となってしまったのだった。
　
　残念無念だが、マルセ太郎さんと出会えたことは幸運だった。束の間の交流ではあったが、生きる歓びをたくさん教えて貰ったからだ。
　マルセ太郎さんは芸人だった。だが単なる芸人ではなかった。単に芸人ではなかっただけでなく、マルセさんは既成のどんな職業・肩書き・ジャンルにもあてはまらない存在だった。マルセさんは在日朝鮮人であり、帰化して日本国籍も有していたが、朝鮮人でも日本人でもない、もっと根元的な存在だった。
あえていえば、「人間マルセ太郎」を生き抜いた人物なのである。
　我田引水めくが、それゆえ『人間屋の話』では、人間屋を代表してマルセ太郎さんに序文を寄せていただいたのだった。その一節を引用しておきたい。

　　《われわれのような権力から遠い者は、一人ひとり無力かもしれない。しかし野球にたとえれば、せめて良き外野席の客になることはできるだろう。歴史をしっかり見よう。世の中には、少数派ではあるが、常に弱者への視点を失わないで闘っている勇気の人がいる。彼らを孤独にさせてはならない。外野席からでも拍手を送ろう。『街から』のようなミニコミ誌なら、それはできるはずだ。》
　　　　　
  この序文は、マルセ太郎さんの遺書だったのかもしれないし、マルセさん亡き後の新世紀を生きなければならない私たちへの激励だったのかもしれない。
　非力な私たちには、マルセ太郎さんのように生きることは難しいけれど、せめて精神の一端くらいは受け継ぎ担っていきたいものとはおもう。
　それにしてもマルセ太郎さんの「語り」に耳を傾けられないのは、何とも寂しい。

                                                                                     （2001年4月『街から』52号）
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 15:21:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>大阪寺町のデンデケデケデケ　</title>
         <description><![CDATA[<strong>大阪寺町のデンデケデケデケ　（文・本間健彦）</strong>

<strong>＜生＞の＜祝福の場＞を目指した
寺の文化施設</strong>

　私も人並み（いや、以下かな？）に年に２~３回は墓参りをする。寺は文京区白山にある。家からは近いし、たまには線香の一本花一輪位あげたいひとの居る処だから、もっと足繁く行ってやるべきなのだろうが、なかなか行動が伴わない。寺の宗旨は何度も聴いているはずだけど、すぐに忘れてしまうので知らない。要するに信仰心が希薄なのだろう。
　でも、寺の雰囲気は嫌いではない。ここを訪れるとどこか心が安らぐ。やっぱりどこかでここを終の住処と思っているからなのかどうか。都心の寺だから大きくはないが、木立や緑の多いのがいい。本堂横手にある墓地は周辺をマンションや木造アパートに囲まれているが、それゆえ淋しくないのもいい。
　ただひとつ、気になることがある。これは我が家の墓のことではないのだが、時々よそ様の墓の向きが変わっていたり、墓が無くなっていることがあることだ。まさか墓が勝手に向きを変えたり、どこかへ転居するわけではあるまいから、何かの事情があってそういう事態も生じたのだろう。聞くところによると、墓というものは不動産物件ではないので、遺族が長い間墓参りに現れなかったりすると、寺の一存でそういう処分も受けるらしいから、そういうケースに該当するものなのかどうか。
　人は死ぬと墓に入るものと思いこまされてきたので、人びとは住宅ローンをやっと払い終え、年金生活者になる頃には、今度は終の住処を求めてまたしても高い買い物をしなければならない。人間家業も御苦労様のものなのである。進歩的な人のなかには、葬式は無用、骨は海に撒いてくれ、と遺言する者もぼちぼち現れているようだけれど、こちらの方が案外真っ当なのかな、と思ったりもする。いずれにせよ、寺とわたしたちとの関係も大きな曲がり角に来ているのかも知れない。

　柄にもなく寺のことなどについて御託を並べてしまったが、これにはワケがある。じつは先日、歌手の仲田修子さんが大阪の寺でライブをやるということで取材で同行したのだが、このとき会場となった、その寺の住職のことが心に残ったからなのだ。
　会場となった大蓮寺は、大通り沿いに寺が軒を連ねている寺町の一軒。お寺でのライブと聞いていたので、ブルース好きの風狂な和尚が本堂でも解放して開くコンサートなのかなといった先入観を抱いていたら、そうではなかった。同寺の境内の一角に斬新なデザインのまだ真新しい建物があって、そこが会場の應典院ホールだった。玄関脇の掲示版に催しもののビラと一緒に半紙に書かれた「散る桜　残る桜も　散る桜」という良寛の句が貼られていたのが、わずかに寺のポリシーを感じさせるものだった。
　この應典院ホールは、昨年の４月に開場しているそうで、ちょうど創立１周年を迎えたところ。建物内には、当日はライブ会場となっったメインホールのほかに、研修室、集会室、ギャラリーなどが併設されていて、演劇・コンサート・写真展・講演会・トークサロン・各種の市民文化活動・劇団の稽古場などに貸し出されるという。いわば寺経営の私設市民ホールといった施設なのだ。
　寺の副業事業というと、従来は幼稚園とか駐車場、地主やマンションオーナーといったものが一般的だったので、つい皮肉な見方をしてしまい、これも新手の寺の副業事業なのかな、思ってしまったのだが、そんなケチな了見のものではなかった。この應典院ホールを開設した動機について、住職の秋田光彦さんは次のように語っている。
「寺という所は、信者が参詣する神聖な場所という概念ができてしまっているが、ここの利用者たちはほとんど仏教信者ではない。日本の寺には元々、寺小屋に代表されるような、地域の公共空間的な役割があったのだが、近代以降いつの間にかその機能をなくしてしまった。一方、現代の都市には会社とか学校とか商業施設いった日常空間ばかりが幅をきかせていて、寺院のような非日常空間が見失われつつある。
　私はそういう観点から、都市生活者たちの＜生＞の＜祝福の場＞として存立するような、もうひとつの居場所を、こういう形で創ってみたかったのです。」
　それからこんな言葉を付け加えることも忘れなかった。
「演劇やコンサートの会場としてここに集う宗教などを考えたこともない若い世代が、ついでに寺院のスピリチュアルな雰囲気にも魅力を感じてくれれば望外の喜びですね。」
　このように熱い志を語ってくれた秋田さんは、若干３８歳の若い住職だった。若い頃は坊主になる気などさらさらなく、東京の大学を出ると、情報誌の編集者を経て、独立系の映画製作グループでプロデユーサーの仕事に従事していたそうで、仏教大学に入り僧籍を得るのはその後のこと。そういうキャリアを聴くと、なんとなく秋田さんの意欲的な事業展開に納得がいく。
　
　東京に帰ってから、文化座の『青春デンデケデケデケ』という芝居を観た。ベンチャーズやビートルズが登場し、日本の若者たちの間にもエレキ・ブームが起き、バンドを作る若者たちが激増していた時代の青春像をろっく・ミュージカル風に描いた愉快な芝居で、バンド・メンバーのひとりに寺の息子が出て来る。この住職の倅は仲間の１人にバンドのメンバーに入らないかと誘われると、「なんで何にも楽器の出来ない俺なんか誘うんだ？そうかお前ら、家の寺を練習所にしたいからだろう」そんなことはすっかり見抜いているぞと皮肉っているのだが、口とは裏腹に嬉々としてバンドに加わっている。そんな芝居を観ていて、なぜか秋田さんのことを思い出したのだった。

                                                                                                  （1998年6月『街から』35号）


]]></description>
         <link>http://www.machikara.net/event/2008/04/post_8.html</link>
         <guid>http://www.machikara.net/event/2008/04/post_8.html</guid>
         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 15:12:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>群馬県甘楽町と東京都北区のネットワーク　</title>
         <description><![CDATA[<strong>群馬県甘楽町と東京都北区のネットワーク　（文・本間健彦）</strong>


<strong>都市と農村が健全に共存するための
ネットワーク構築の必要性</strong>

　群馬県甘楽町のＰＲ用パンフレットを見ると、「原風景――たまらなくなつかしい、日本のふるさとが、ここに・・・」という、口にするとちょっと気恥ずかしいコピーが書かれているのだが、やって来ると、なるほどそんな町だなぁ、と率直に思った。今回の取材に際し、町の関係者の方々がじつに親切に対応してくれたので、お世辞を言うわけではないのだ。確かに、この町には何か懐かしい感じを訪れる人に思いおこさせる魅力が感じられたからである。
　だが、「原風景」を一見、失っていないように見える、この甘楽町にも、内情をきけば、やはり諸問題が生じているらしい。甘楽町の人口数は1万4785人、世帯数3839世帯ということだが、このうち農家の戸数は918戸で、全体の23％強に過ぎない。しかもその中で「専業農家」は245戸で、わずか26％強に過ぎず、残りは主たる本業を他に持つ（例えばサラリーマンとして勤めに出ている）、「兼業農家」だという。
　この数字は一体何を物語っているのか？端的にいえば、「専業農家」では、もはや生計を立てていくのが難しくなっているか、もしくは農業に従事するより会社や工場に勤めた方が効率よく有利な収入を確保できるということだろう。つまり日本の農業は、自由化の嵐とか米の減反政策が農村に打撃を与えるはるか以前に、すなわち産業化が進み、都市化が加速する中で、どんどん追い込まれ転がるように崩壊してきたのである。それでも農家が農業を見限れなかったのは、先祖代々引き継いできた田畑といっても、農地法により自由に田畑以外の土地として処分することはできなかったからだろう。
　現代社会の中で農業が生き残るためには、近代化しなければならない、と農家は尻を叩かれてきた。農業の近代化とは、農業の大規模化・高能率化を実現せよということだった。具体的には、専作化――つまり、米麦の農家は米麦の単作、野菜農家は野菜農業を専業にすることを求められた。当然のように、近代農業においては、各種の農機具が導入され、膨大な量の化学肥料と農薬が使用されてきた。
　このような形で農業作物も、まるで工業製品のように生産され、市場商品のひとつに組み込まれ、農業はかろうじて生き残ってきた。連作障害や農薬の乱用により農地はどんどん疲弊してきているというが、市場経済の下で商品を生産しつづけなければ生き残れない農家にはどうすることもできない。
　近年、有機農業が注目されてきた。農薬まみれで栽培され、漂白剤で洗浄した野菜を食べることの危険度に消費者が目覚め始めたからだろう。そして八百屋やスーパーやデパートの青物売り場にまで、本当にそうなのかどうか分からないが、「有機野菜」と銘打った野菜が目に付くようになってきた。だが、有機野菜は高い、と敬遠する人もまだ少なくないという。また、虫食い野菜や泥付きの野菜が消費者から敬遠されるという理由から市場で締め出されているとも聞く。
　このような傾向は、一般的な農家にとっては有り難いことらしい。有機野菜作りは、効率も悪いし、リスクを伴うし、作業もしんどいからである。甘楽町の例を見ても、有機農業に本格的に取り組むために10年前に発足した甘楽町有機農業研究会（黒澤賢太郎会長）の会員はわずか２５人に過ぎないことが、そのことをよく証明しているだろう。
　けれども、農薬の危険性を一番よく承知している農家の人は、自分たちの食べる分は有機農法で作っているというところが多いといわれる。つまり商品として作る作物と自分たちの食用分の作物とを明確に分けているのである。そんな話を聞き、いくら都市のわたしたちが「そういう作り分けをするなんて農家の人はずるい」と非難しても仕方ない。それが現代の農業の現実なのだから。
　だが甘楽町には救いがあった。町役場が積極的に有機農業に取り組む農家を支援してきたからだ。一例を挙げれば、役場の農林課の中に有機農業研究会の事務局を設置し、会員の作る有機栽培の野菜を、応募した都市部のオーナー会員（現在約200人）に定期的に販売するというシステムを作り、町おこし・村おこしの一環として位置づけ、この事業の推進に力を注いでいるからである。
　一方、群馬県甘楽町と東京都北区は、1986年4月に「自然休暇村事業協定」を締結し、共同で建設した『甘楽ふるさと館』を拠点にして、都会の子どもたちが農村の暮らしを体験できる「親子ふるさと体験」やスポーツ交流など、様々な交流を毎年続けてきた。
　その背景には、半世紀前の戦時中、当時の王子区立第二岩渕国民学校の5・6年生が学童疎開で甘楽町のお寺等にお世話になっていたという歴史のあった点も見逃せない。そのような縁も今日の北区と甘楽町の交流を形成する母胎になっていたからである。
　戦時中及び戦後の地獄のような食糧難の時代を体験している世代は、農業がどれだけ大切なものかを身に沁みて知っているにちがいない。少量で、その上遅配ばかりしていた配給の米では餓死しかねないために都会の人びとは田舎の農家に買い出しに出かけたのだが、農家の人に「お金では売れないよ。着物とか何かモノを持って来な」とケンもホロロに追い返えされたりした体験者が少なくない。そのため焼け跡に建てたバラックのわきのわずかの空地に菜園を造り、トマトやキュウリやナスなどを植えて野菜を自給し、ニワトリを飼って、毎朝産んでくれる卵を貴重な蛋白源にしていたという時代もあったのである。
　戦時中・戦後の一時期のような食料難の時代もご免だが、農薬漬けの危険な米や野菜を食べ続けなければならないという状況も何とかしなければならない。この問題を解決していくためには、都市と農村がもつと有機的に共存できるようなネットワークを構築していくことが不可欠のように思える。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                                                        （1996年6月『街から』23号）
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         <link>http://www.machikara.net/event/2008/04/post_7.html</link>
         <guid>http://www.machikara.net/event/2008/04/post_7.html</guid>
         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 15:08:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>黒田オサムとドンちゃん　</title>
         <description><![CDATA[<strong>黒田オサムとドンちゃん　（文・本間健彦）</strong>　

<strong>黒田オサムを大バケさせたドンちゃんの慧眼</strong>
　　　　　　　
　黒田オサムの自製の略歴は痛快だ。例えば、こんな具合。《子どものころ、川に流され肉屋のヨネちゃんに助けられる。二度も空を飛ぼうとして墜落、二度とも左腕骨折。以後、左腕曲がる。》初対面のとき、「思わず吹き出しましたよ」と告げたら、「ああ、そうですか。略歴なんてみなあんなものじゃないですか？」とご本人は澄ましたもの。で、当方は向きになって「あんなもんじゃ、ないですよ。だいたいみんな偉そうなものですよ。何々大卒とか、立派な業績などが並べたててありますよ」と食い下がったのだけれど、「ああ、そうですか」で、おしまい。“空気投げ”に遭ったようなものだった。
　そのくだんの略歴にもう一箇所気になるくだりがあった。《オドリの師匠・流派なし。我流のへんなオドリを、天才的舞踊思想家ドンちゃんに見出され、パフォーマーの道を歩み始める。》一箇所とは、どうやら今日のパフォーマー黒田オサムを発見・発掘したらしい天才的舞踊家ドンちゃんというところで、「ドンちゃんとはそも何者か？」という激しい好奇心を抱いてしまったからだった。黒田オサムはもしかしたら名コピーライターなのかもしれないが、《天才的舞踊思想家》という紹介の仕方がまず凄い。男なのか女なのか。舞踊思想家とはどんな存在なのか。生存者なのか物故者なのか。ただドンちゃんという名前だけがひとり歩きしているだけで、真相が皆目掴めない。そこのところがなかなか神秘的で興味をそそらせるのである。
　黒田オサムの話に耳を傾けていると、冒頭の略歴の中に出てくる幼少の友、肉屋のヨネちゃんを皮切りに、小学生低学年のころ将来は絵描きになろうと決心して師事した紙芝居屋のヨッちゃんとか、はたまた山谷時代の仲間の一人で「俺は芸人なんだ！」といつも自慢していて、あるとき「明日、久しぶりに芸の仕事をするから来るか？」と誘われたので、土方仕事よりは楽だろうとついて行ったら、近郊の農家を門付けして回る乞食芸人だったカメちゃんなどなど、愛称名で登場するおかしな友人・知人が一杯いるんですよね。で、ドンちゃんもそんな一人なのかな、とおもったりもしたのだが、やはり《天才的舞踊思想家》という触れ込みは別格で好奇心はいやますのだった。
　その神話の主人公ドンちゃんに、先日、私は遂に逢い見る機会を得たのだった。大袈裟なことを、などと言うなかれ。わが黒田オサムとドンちゃんとの出会いはまことにもって神話的なものだからです。そんなお話をほんのさわりですが紹介することにしよう。
　１９８８年５月１５日〜２２日までの８日間、東京・西荻窪のアトリエ・ミチコで『黒田オサム・オバケ展』が開催された。黒田オサムの初の個展（しかもギャラリーが企画・主催したもの）で、いわば画家としてのデビュー展だったのだが、黒田オサムの回想のよれば「僕が毎日すいとんを作り、それをお客さんに食べていただきながら絵を見てもらうという趣向の変な個展だった」という。
　この黒田オサム展を企画・主催したのがアトリエ・ミチコを主宰していたドンちゃんだった。もう少し正確にいえば、ドンちゃんとその同伴者（夫）である渡辺裕之さんのお二人で、つまりドンちゃんは女性だったわけです。
ところで、会場のアトリエ・ミチコのことなのですが、これが実は西荻の住宅街にあった老朽アパート清風荘の一室をギャラリーにしたものだった。当時ドンちゃんと渡辺裕之夫妻は、このアパートの二階に暮らしていたのだが、ギャラリーにした一階玄関脇のその部屋には前年まで一人の老人が住んでいた。ロートレックの絵に描かれているようなすごくいい顔のおじいさんだった。足が悪かったようでほとんど外出することもなくいつも部屋に引き篭もっていた。クラシック音楽が好きだったらしく、部屋の前を通るといつも静かにレコード音楽が洩れ聴こえてきた。その音楽が唯一老人の生きている証のようだった。、前年の暮れ、レコードの音が数日途切れる日が続いた。郵便箱に数日分の新聞の束が溜まったままだった。不審におもい大家さんが部屋に入ると、老人はひっそり死んでいた。身寄りがなかったのか、通夜にも葬式にも縁者らしい人は誰も駆けつけなかったという。
　その部屋は老人が亡くなったあと空室だった。「あのおじいちゃんの部屋を生かしてあげたいなあ」とドンちゃんはおもった。で、その十畳ほどのアパートの一室をギャラリーにすることにした。こうして誕生したアトリエ・ミチコの柿落とし展として白羽の矢を立てたのが、黒田オサム展だった。「わたしの中でコヤナギさん（その老人の名）と黒田さんは繋がっている人なのよ」とドンちゃんは語っている。二人の共通項は何だったのか。そこまでの説明はなかったが、その企てには鎮魂と蘇生へのおもいがこめられていたのだろう。
　けれども、初の黒田オサム展には予想通りあまり客は集まらなかった。住宅街のアパ−トの一室に発足したばかりの知名度の低いギャラリーでの無名画家の個展では、それも致し方ないことだったのかもしれない。「最終日は黒田さん踊ってよ」とドンちゃんは提案した。打ち上げを兼ね楽日を盛り上げたかったのだろう。「オドリ？僕は踊れないですよ」黒田オサムは尻込みした。「黒田さんはただ立っているだけで踊りになっている人だから、大丈夫踊れるよ」ドンちゃんは説得した。
黒田オサムはその頃はまだパフォーマーではなかった。だがこの男には、戦後すぐに画家をめざして上京したものの山谷などで都市底辺の暮らしを長い間余儀なく続けてきたにもかかわらず生活に屈しないアプレゲールの心意気とアバンギャルド精神が沸々と持続されてきたのだった。それは例えば、「六〇年代のはじめ頃でしたかね、ヨーゼフ・ボイスがコヨーテの小屋に入って何時間かすごしたパフォーマンスが話題になりましたけど。僕はそれより前に上野公園で掃除の作業をしていたとき、フェンスを乗り越えてラクダの背中に乗っかちゃったことがありますよ」といったエピソードや、前述の山谷の仲間カメちゃんについて門付けをやってたときには「カメちゃんが俺は芸人なんだ！と威張ってる割りに芸がないので、仕方なく体をゆすって変なオドリを踊りながら『地蔵和讃』なんかを出鱈目に詠ってましたね」という回想などに読み取ることができた。つまり黒田オサムには生活の中で身体に刻み込まれてきた無念や叫びが深く記憶されていたのである。黒田が自分より遥かに年少ながら《天才的舞踊思想家》と尊敬するドンちゃんの慧眼は、黒田オサムが踊れる人だということを見抜いていたのだろう。
黒田オサム・オバケ展の最終日には、どこで聞きつけたのか大勢の客が集まり、一室を車座で埋めつくした。黒田は「俺は死んでも死なないぞ、俺はオバケダ！」といった内容の話をひょうひょうと物語り、門付けしたときにやっていた「これはこの世のことならず、賽の河原の物語…」といった念仏を詠いながらの奇妙なオドリを踊り、あさり売りの行商をしていたときの声色を披露した。また、日本初の革命歌を朗々と歌い、「クロポトキンの金玉！」といった奇妙なシュプレヒコールを発して、若い客たちを煙に巻きやんやの喝采を浴びた。
これが黒田オサムの伝説的なパフォーマーとしてのデビューだった。このとき黒田オサム５７歳。ちなみに黒田がパフォーマンスの公演で使っているカスタネットは、ドンちゃんがスペインで踊りの修業をしていた時代に使用していたもので、彼女からプレゼントされたものだという。
そんなわけでドンちゃんはパフォーマー黒田オサムのいわば生みの親なのだが、彼女はあの破廉恥な考古学者みたいに僭越ではなかった。「それは違うのよ。わたしは肉屋のヨネちゃんや紙芝居屋のヨッちゃんと同じなの。黒田さんって人はあんまりしゃべらないけど、すごく面白い話を一杯もってる人なのよ。でも、人の話に割り込んで横取りしたりするような性格じゃないから、せっかくいいものをもっているのにそれまでしゃべるチャンスがなかったのよ。この人にもっとしゃべらせて！って気持ちが、わたしは強かったのよね」
パフォーマー黒田オサムの側面ばかり強調してしまったようだが、本来この会は初の黒田オサム展だったのである。しかもギャラリーのお披露目の企画展に黒田オサムは抜擢されているのだ。つまりドンちゃんはまず画家黒田オサムの発見・発掘者でもあるのだ。では、ドンちゃんは黒田オサムの絵のどんなところが気にいったのだろうか。
「たしか黒田さんの絵をはじめて見たのはFIUでだったとおもうんだけど、この人の絵はどうして線がこんなにシャープなんだろう！とすごく好きになってしまったのよ。とても単純な線なんだけど、意外性があるし、とても神秘的なのよ。それで好きになっちゃった」
このドンちゃんの讃辞に対し、黒田オサムはこんな解説をするのだった。
「あの線はね、僕が筆耕で生活していた頃の後遺症なんですよ。ほら、ガリを切るとき定規を使ってガリガリって線を引くじゃないですか。あれです。そうしたら絵を描くときにもモノサシを使わないと描けなくなっちゃって。だけどね、やってるうちにあの線がだんだん面白くなってきて。線って深いんですよね。線ってのは、つまり境界線ですよね。生と死、ウソとホント、あの世とこの世、過去と未来、などの境。だけど、両者は決して分かれて存在してるわけじゃない。ウソってのはホントがあってウソがあるわけですし、ホントってのはウソがあってホントがあるわけですからね。つまりお互いに持ちつ持たれつの関係なんですね。上手とか下手とかいうことも同じで、ですからうまい人はへたな人に感謝しなくちゃいけない。僕はそういうお互い持ちつ持たれつの、線があって線がないような混沌とした状態に興味があるんですよ。それはアナキーな精神につながっているとおもいますしね」
　黒田オサムは普段はいたって寡黙な人なのだが、一度堰を切ると次から次に話が飛び出してきて止まらなくなる。ドンちゃんは楽しそうに聞き役に回っていたが、話が一段落すると、庭に出て紫蘇を摘み、それを天麩羅に揚げ、美味しい蕎麦をご馳走してくれた。団欒の中で彼女はこんな黒田評も語っていた。「黒田さんとすごしていて何がいいかというと、楽だからいいの、楽な人ってあんまりいないですからね。それとわたしは長老のような人物を探していたのですが、黒田さんは知り合った頃からすでに長老って存在でしたよね。だから憧れてきたのよ」
　ドンちゃんは現在、逗子の外れの海を眼下に見下ろす丘の上にある米軍ハウス風の家に夫妻で暮らしている。身体を壊し今は快復したが踊りは休止状態だという。雑草の生い茂る庭の真ん中に姿のいい棕櫚の木がある。初夏の海は小雨でボーッと霞んでいた。
　帰路、黒田オサムと小生は渡辺裕之さんの運転する車で逗子駅まで送ってもらったのだが。その途中で「あっ、ここが日蔭茶屋だよ」とドンちゃんが教えてくれると、「えっ、そうなんですか！？」と黒田オサムは日頃の柔和な表情を一瞬固くして振り返った。それはアナーキストの眼だった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（2001年6月『黒田オサム古希を祝う会』パンフ）
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 14:52:14 +0900</pubDate>
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         <title>新藤兼人監督『生きたい』の佯狂老人考　</title>
         <description><![CDATA[<strong>新藤兼人監督『生きたい』の佯狂老人考　（文・本間健彦）</strong>

<strong>佯狂老人とソ−ウツ娘に見る人間精神の在り様</strong>

　新藤兼人監督の新作『生きたい』を特別上映会で観た。この新作品は、同監督の前作『午後の遺言状』の姉妹編という触れ込みで、前作同様に老人問題をテーマにした作品である。
『午後の遺言状』は、同映画の完成後、他界している名女優であり、新藤監督の愛妻でもあった乙羽信子へのオマージュといった趣の美しい作品だったが、今回の老人映画はどんな作品なのか。この作品は今年の１月に封切られたものの、評判も客の入りも芳しくなかったようで早々に上映が打ちきられてしまったと聞く。
　今回の上映会は、『生きたい』が今年の夏、「第２１回モスクワ国際映画祭」でグランプリを受賞した記念に、製作した近代映画協会が主催したもので、上映に先立って挨拶に立った新藤監督の話しも聴くことができた。

『生きたい』の主人公・安吉（三國連太郎）は、１５年前に妻に先立たれている７０歳の老人で、４０歳になる独身の長女・徳子（大竹しのぶ）と暮らしている。長男と次女は別居していて家に寄り付かず、一緒に暮らしている徳子は躁うつ病を抱えていて、安吉がトラブルを起こしたりすると、「オヤジのクソバカ」と罵り、「お前がいるからわたしは結婚できないんだよ」と咆哮する娘なのだが、安吉は飄々としていて全然動じない。それどころか寄る年波で安吉は失禁や粗相で娘を悩ませているのだけれど、そんな身体なのにしげしげと酒場通いをしたりしている。その酒場のママとはかつて関係もあった間柄らしいのだが、今はもう歴然と嫌われている。にもかかわらず酒場へのこのこ出かけ、挙句の果てに失禁騒動をしでかすので、「もう２度と来ないで」とママに叩き出されるのだけれど、「僕はボトルを預けているんだよ。また来るからね」といっこうにめげる様子もなく、何日か後には性懲りもなく出かけて行く。
　現実にこの父娘のような人物と共に暮らすとしたら、とてもじゃないがたまらないということに多分なるにちがいないが、映画の中では２人のキャラクターは光芒を放っていて、観客の気持ちを引き付けて離さない。要するに面白いのだ。わたしたちの日常生活はくそリアリズムに満ち満ちていてともすれば窒息しそうだけれど、いい映画にはそんな日常の陳腐な現実をテコにしたり逆手にとって、日頃わたしたちが見失っている何かを垣間見せてくれる力がある。それが映画の面白さというものだろう。
　
　この『生きたい』では、安吉と徳子を主人公にしたドラマと並行して、姥捨て伝説の物語がモノクロームの映像で描かれている。安吉は入院先の病院から姥捨て物語の本を退院する際に失敬してきて熱心に読んでいるのだが、身につまされ思い余ってのことか、その本を娘の徳子や酒場のママに盛んにすすめ、彼女たちに疎んじられている。
　姥捨てバージョン版の方の主人公・オコマ（吉田日出子）も安吉と同じ年の７０歳。２人の息子の長男の方にやっと嫁を娶らせると、「これでお家も安泰ぞ、自分の役割も終わった」と観念し、お山参りの準備にかかる。昔々の日本の貧しい村落では、そのようにして役立たずになった老人は山に捨てられた。それが子孫を繁栄させていくために不可欠の家や村落共同体の掟だった。オコマが息子の背負子に背負われ悟り澄ました表情でお山参りができるのは、自分が捨てられることで、子孫が生き延びていくことを確信しているからなのだろう。この映画では姥捨て物語が、そのように描かれている。
　だが、安吉には、オコマのような悟りは開けない。赤紙１枚で兵隊に駆り出され、運よく敗戦で祖国へ帰還できたものの、空襲で焼けてしまって住む家もなく、空腹を抱えて闇市を野良犬のように彷徨するしかなかった青春時代。なんとか就職先を見つけ、今度は一転復興日本の企業戦士として身を粉にして働かされ、経済大国躍進の一歯車ぐらいの役割は果たしたはずなのに、気がつけば定年で、年金暮らしの老人になってしまったら、社会からも、家の中でも、尊敬はおろか、軽んじられ粗大ゴミ扱いされるだけの存在。姥捨て伝説はけっして昔々の伝説などではなく、現代だって老人を捨ててるじゃないか。しかも家も共同体も崩壊状態なのだから、オコマのように悟りの心境も抱けないのだ。安吉はそんな憤懣や焦燥感に身を焦がしているのだ。その気持ちが「冗談じゃないぞ、老人だって生きているんだ。生きたいんだよ。」といった生々しい生き方を、安吉に選ばせているのだろう。
　けれども、そんな老人の鬱憤が単にリアリスチックに描かれているだけではうんざりしてしまう。ドラマには意外な展開や見せ場も必要なのだが、この映画にはちゃんとそんなシーンも用意されている。
　結局、突っ張っていた安吉も医師や徳子の説得で遂に老人ホームに入居するのだが、このときの安吉の出で立ちがふるっていて、山高帽にモーニングを着用し、胸には勲章をぶらさげるといった佯狂老人ぶりなのだ。それを聞きつけ、ある日酒場のマダムが「ちょっと、あんた、これ受け取って」と徳子の家にやって来て、玄関の上がりまちに店に預かっていたウイスキーのボトルをどんと置いていく。そのときの２人の会話が面白い。「お父さん、老人ホームに入ったんですって？」「知らないよ」「これ、お父さんのボトル、返しましたからね」「ゲスヤロー」「それから、これ、お父さんのパンツ」と、放り投げ、「では、ソーウツさん、ごきげんよう」。ママは後腐れを恐れて、安吉がボトル・キープしたウイスキーをわざわざ返しに来たのだろうが、おまけに安吉が酒場で粗相した際のパンツまで届けてしまったのは嫌味であり勇み足だった。この一件でソーウツの徳子は一挙にキレ、ママは彼女から猛烈なしっぺ返しを受けるからだ。
　それにしても徳子がママの店舗兼住居を急襲し、愛人とベッドを共にしているママに派手な殴り込みをかけ、それでも収まらずに飾ってあった青竜刀で店の酒瓶を叩き壊すという狼藉ぶりには、校長や赤シャツをやっける『坊ちゃん』を彷彿させるところがあり、なぜか痛快なのだ。
　その足で徳子は老人ホームへ駆けつけ、「オヤジ、帰ろう。わたし、お父さんがいないと寂しくて死にそうなの。頼むから家へ帰ろう。」と強引に安吉を連れ出す。小さな身体の徳子が自分の倍もありそうな安吉を背負いよろよろ歩き始めたものの、それでは娘が可哀想だと気付いたのか、今度は安吉が徳子を背負って家路に向かうシーンは、観客にほのぼのとした希望を与えてくれるのだが、それは必ずしも老人問題のハッピーエンドの解決を示唆したものではなく、むしろ姥捨て伝説のパロディーだろう。
　圧巻はラストシーンで、家に帰って安らかに昼寝している安吉のところにどこからともなくカラスが集まって来ると、徳子が猟銃でそのカラスどもを派手に撃ちまくり、真っ黒い羽毛が室内に吹雪のように乱舞するという鮮烈な映像で息を呑む。カラスは死の象徴としてこの映画には随所に登場するが、徳子は父親のもとに忍び寄る死の影を追い払うつもりだったのだろう。
　それにしてもこのような徳子の激情的暴発が痛快に映り、共感さえ覚えるのは、そこに無垢な魂の叫びが認められるからであり、彼女の怒りが父親の憤懣を代行するものだったからでもあろう。現実にこのような乱暴狼藉を働けば、事件として警察に逮捕されるか、精神病院に送り込まれるのがオチであることは言うまでもない。映画だから許されるのだし、それが映画の面白さなのだ。

　この映画の特別上映会の前に行われた挨拶で、新藤兼人監督は次のようなことを語っている。「私は８０の坂を越して、初めて老人というものが内側から見ることができるようになった。今まで外側から見ていた時の老人像は、欲も得もなくなった枯れた存在だったり、仏様に近くなった人間といったイメージだったのですが、自分自身が正直正銘の老人になってみると、そういうものではない。家族や世間から見捨てられれば不満や怒りがつのるし、やり残したことに対する焦りだってある。妄執と笑い飛ばされるのかも知れないが、老人になっても、まだ生きたいんですよ。」
　老人になると、ボケたり寝たきりになってしまい、介護が不可欠の厄介な存在というイメージが世間では定着しているようだけれど、そういう老人問題の捉え方はあまりにも役所のレポートみたいに画一的で、陳腐で、老人の実情にかならずしも即したものではないことが、この映画を創った新藤監督の言葉には認められる。
　『生きたい』という映画の面白さは、何と言っても主人公に佯狂老人とソーウツ娘というキャラクターを設定している点にあるだろう。この映画の父・娘は、世間の物差しで計ったなら、度を過ごした変わり者に違いないが、人間の精神（魂）だけは失っていない、そんな人物として描かれている。ドラマの世界の話ではあるが、シャバという人間精神の希薄な世界で佯狂とソーウツという仮面に身に纏った（たぶん、そうでもしなかったら人間精神を失わずに生き続けることは難しいからだろう）主人公を自由闊達に動き回らせている。それゆえ、この映画は、老人問題というシリアスなテーマを有しながら、どこか可笑し味があり、痛快なシーンもあり、面白いのである。

　　　　　　　　　　　　　　　（１９９９年１２月『街から』４４号）
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 14:23:00 +0900</pubDate>
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