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      <title>街から舎 | 編集室から</title>
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      <description>エディターズスタジオ街から舎のページです。ここでは様々なイベントなど編集室からお知らせしたいトピックなどを掲載していこうと思います。</description>
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      <copyright>Copyright 2010</copyright>
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         <title>高田渡の歌「漣」の原詩作者、詩人・高木護さんのこと</title>
         <description><![CDATA[<strong>高田渡の歌「漣」の原詩作者、詩人・高木護さんのこと</strong>

☆　小生にとっての新年早々の慶事は、なんと言っても詩人の高木護さんにお会いできたことだった。大変失礼な話だが、高齢の方と仄聞していたからすでに故人なのかなと半ば諦めていたので、お元気な様子でお会いできたことがなんとも嬉しかった。さて、高木護さんは、どんな詩人なのか。今回の「シティライツノート」はページ数が少なく、ご紹介できなかったので、この場で、その横顔だけでもお伝えしておこう。
☆　高木護さんは一九二七年、熊本県生まれ。一四〜五歳のころ、丸善書店博多支店の店員として就職、詩や小説など文学作品に親しむことに目覚めた。戦争中は南方で兵役に服し、熱病に倒れ危篤状態に陥ったために死体収容室に放置されるに至ったが、奇跡的に生還したという。戦地から無事故国に帰還できたものの、熱病の後遺症にたたられて定職には就きそこなった。山番・伐採手伝い・日雇い土方・炭焼き・闇市場番人・トラック助手・ちゃんばら劇団の斬られ役・古着屋の手伝い・商人宿の番頭・飯場の人夫・沖仲仕・コークス拾い・占い師・ニセ坊さん・密造酒売り・うどん屋の手伝い等々、百数十種余の職業を転々とした。こうした職業遍歴の合間をぬい、高木さんは九州の各地を渡り歩き、野山や土管の中で野宿するという放浪の旅――彼の言葉でいえば「ぶらぶら歩き」を続けてきた。そんな高木護さんの「生活の柄」こそが、異彩の漂白詩人として知る人ぞ知る存在となっている土壌だったのである。
☆　また、経歴を見ると、高木護は、谷川雁・森崎和江・松永伍一・川崎洋といった面々と共に、一九五〇年代から六〇年代にかけて九州久留米で丸山豊が主宰していた伝説的な詩の同人誌「母音」のメンバーでもあったことも注目に値する。それともうひとつ運命の赤い糸のようなものを感じたのは、高木護の本を一社で十点近く出版している未来社の創業社長西谷能雄という人が、高田豊が戦前京都の出版社弘文堂に勤めていたころの同僚だったということだった。こんなところにも高田渡との奇縁を思わないわけにはいかない。
☆　高木護さんの短い詩をひとつ紹介しておこう。詩集『天に近い一本の木』所収の「どぶ川」と題した詩です。

家の前を
どぶ川が流れている
親子四人
一汁一菜
志をひくくして　
ゆめもなく
一日を生きながらえ
灯を消して
眠りにつく　
どぶ川は
夜明け方までせせらぎになる　

（文・本間健彦　『街から』104号編集後記より）
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Fri, 12 Feb 2010 12:35:57 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>フォークソングの吟遊詩人・高田渡の勇み足</title>
         <description><![CDATA[<strong>「フォークソングの吟遊詩人・高田渡の勇み足」　文･本間健彦</strong>
高田渡と父・豊――この父子を主人公にした本が出版されたばかりの、こんな時期に、こんな記事を書くのは著者として心苦しいのだけれど、物書きの端くれを自認している者としてはやっぱり見て見ぬふりはできないし、書かなければならないという業を背負っているのだろう。で、その顛末を記すことにした。
本誌で連載の時にお読みになっている方はご記憶かとおもうのだが、私は、この高田渡父子の物語の最終章で高田渡の持ち歌の一つである「漣」と題した歌詞を紹介している。この歌は、一人息子漣さんが幼少のころの、父と子の微笑ましい交流シーンを唄ったもの――いや朗読したもので、私は詩としてもとても好きだったからだ。さらに付け加えると、この歌には、いかにもタカダワタル的な父と子の情愛の姿がうかがえ、高田渡と父・豊の、父子の物語をしめくくるうえでまさにうってつけのエンディング・ソングだとおもったからなのである。
「漣」は、長い間、高田渡の作詞の歌として知られてきた。この歌に原詩作者からクレームがついているという情報を耳にしたのは、高田渡が他界して二年後に、私が本誌に「高田渡紀行」の連載を始めてしばらくしてからのことだった。だが、その時点では、原作の詩人名も原作詩に関しても情報としてマスコミ等に流されていたわけではなく、事実確認をする手立てもなかったので、ゴシップ情報として聞き流した。
だが昨年末、この単行本を上梓する際、中川五郎さんにライナーノーツを依頼し、ゲラを読んでもらったところ、「あの歌は、渡さんの作詞ではなく、高木護さんという詩人の詩なので、そう明記しておいたほうがいいですよ」と忠告を受け、とりあえず最終稿で「この歌詞は詩人・高木護の詩をアレンジしたものだという。」と註のような一文を付して下版した。そのようにしか書けなかったのは、その時はまだ原作者の存在も問題の原詩も確認できなかったからだった。
しかし本が出版されてから、そのことが次第にひどく気になり始め、私は図書館で高木さんの著作を数冊借りて読み、月並みの言葉で恥じ入るが、目からウロコが落ちた。高木護の詩やエッセイは、いずれも高田渡好みの「生活の柄」で紡がれた燻し銀のような作品だったからである。そして私は、詩壇ではマイナーな存在らしいこの詩人の詩の素晴らしさに逸早く気づいてその詩を唄っている高田渡の感性と慧眼に、改めて感心したのだった。
その高木護さんに、先日やっとお会いすることができた。もしかしたらすでに物故者なのかな？　とほぼあきらめていたので夢のようだった。八〇歳代の高齢とお聞きしたが、とてもお元気そうだった。この時に私は初めて高木さんから問題の経緯をうかがうことができ、原詩を見せていただいた。残念ながら紙数がないので、以下に要点だけを記す。
肝心の原詩は、「秋」と題す、つぎのよう詩だった。〈<strong>子供</strong>とぼくはいる／ふたりでいる／<strong>草の上</strong>に坐っている／空を見上げている／――見えるものは、みんな他人のものだよ／――うん／親のぼくの頭も弱いが／どうやら／子供の頭もよわいようである／――見えないものがきっとぼくらのものだよ／――うん／――はらが減ったか／――うん、へった〉
高田渡の「漣」の歌詞を並べて記せば一目瞭然なのだが、詞の変えられている箇所は上記原詩のゴシックの部分で、〈漣〉〈野原〉〈<strong>息子の漣も似ているらしい</strong>〉となっている。私は「アレンジした」と記したが、これはアレンジというものではない。
高田渡は、高木護の詩を四曲唄っている。「夜の灯」（アルバム『石』所収：一九七三年）、「雨の日」「漣」（『フイッシイン・オン・サンデー』所収：一九七六年）、「相子」（『渡』所収：一九九三年）。このうち「漣」だけが、――作詞：高田渡――となっている。ついで、アルバムではなく、高田渡が逝去して二年後に出版された追悼ムック本『高田渡読本』（音楽出版社刊）の中の「高田渡の詩」と題した欄に、この「漣」が掲載されている。
高木護さんは七〇年代初頭、「高木さんの詩を唄わせてほしい」という依頼を受け、高田渡と初めて会った。まだ息子の漣さんが赤ん坊の頃だったという。吉祥寺の「いせや」でも何度か一緒に飲んだ。そんな仲だったけれど、アルバムも贈って来ないので、原詩の「秋」が「漣」と名が変えられ、作詞：高田渡になっていることにも気づかなかった。高木さんが知人からの通報で、その事実を知ったのは『高田渡読本』に原詩が「漣」という題で掲載された時だった。それで代理人が高田渡の事務所に抗議の連絡をしたが、埒があかず、うやむやになってしまったという。
高田渡は、なぜ「漣」という曲に限って原詩の作者名を明記せずに、自作の詞としてしまったのか？　すでに故人となっている高田渡にその理由を質すすべはない。憶測の解釈をすれば、この詩があまりにも自分の心情にぴったりだったために、自分の詩のように思い込んでしまったのではないか。高田渡の真骨頂は、自分が唄ってみたい優れた詩を選び抜き、その詩を〈高田渡の歌〉として見事に結晶させ数々の名曲を残してきた点にあり、そんなところにも〈フォークソングの吟遊詩人〉と称されてきた由縁もあったのだろう。しかし、この一件は明らかにレッドカードものであり、表現者として許されることでもない。高田渡は、そのうち天界で高木護さんに再会したら、この勇み足の一件に関しては詫びを入れるべきだろう。
（『街から』104号「シティライツ・ノート」より）]]></description>
         <link>http://www.machikara.net/event/2010/02/post_24.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Thu, 11 Feb 2010 21:44:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『高田渡とその父・豊の「生活の柄」』社会評論社より出版</title>
         <description>

☆今年も早師走ですね。この一年、私は何をしてきたのだろう？人並みにそんなことを思ってしまう年の瀬です。オバマさんには大いにがっかりし、鳩山さんもオバマさんみたいに失望させないで・・・と、柄にもなくそんな心配をしたりしている今日この頃ですが、それにしても姑・小姑の嫁いびりみたいなことをしている自民党さんは醜い限りでうんざりですね。
☆クリスマスにはもう縁がないと諦めていたら、老兵に嬉しいプレゼントが舞い込んで来ました。本誌に連載してきました『フォークソングの吟遊詩人　高田渡紀行』が、単行本として社会評論社という出版社から刊行されます。じつは前号の編集後記欄で、この本を街から舎で出すと申し上げましたので、土壇場で状況が変わった理由について、簡単に説明をします。
☆単行本化の話は、連載終了後、大手出版社の何社かに出版の検討をしていただきましたが、結局全て流れてしまいました。売れそうもない本は出せないという評価基準で弾かれたようです。で、腹を決めて「自主出版します」と前号で発表したのでしたが、捨てる神あれば拾う神あり、というコトワザはまだ健在だったようで、「この本、うちで出しますよ！」と名乗り出てくれた編集者がなんと存在したのです。私は老兵ですから、「出版は編集者が出したい本を作る仕事」という古い信条の持主です。なので、そんな熱意を持つ若武者のような編集者の出現に狂喜しまして、自主出版の旗はあっさり降ろし、社会評論社さんへ出版をお願いをしたわけです。
☆単行本のタイトルは『高田渡とその父・豊の「生活の柄」』となります。連載は取材を兼ねたものでしたから、読みづらかった点もあったのではないかとおもいましたので、単行本化するにあたっては大幅に改稿し、大河小説のように面白く読めるようにしました。ですから、『街から』の読者の方も、花嫁になった娘を見るつもりで、この単行本を読んでいただきたいと願っています。
☆定価千八百円。十二月二十五日発売予定で、神保町の三省堂や池袋・新宿のジュンク堂では平積みで置いてもらえそうですから、早く読んでみたいという方はこれらの大型店に出向いてください。なお、初版の稿料として現物支給を受けた分を当舎でも販売しますので、ご希望の方はお申し込みください。送料は負担します。
☆関連情報ですが、ＮＨＫ教育テレビの「知るを楽しむ」という番組で、来年
二月、高田渡さんの話が四回にわたって放映されるとのことです。この番組を担当するＮＨＫ京都放送局のディレクターの方から、「企画の参考に読みたい」と連載記事掲載分をワンセットお買い上げいただきました。映像媒体と書籍のちがいをつぶさに確認できるいい機会と楽しみです。（本間健彦）
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Sun, 17 Jan 2010 00:29:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>シティ・ライツ・ノート／目次</title>
         <description><![CDATA[<strong>シティ・ライツ・ノート　（文・本間健彦）</strong>

<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_3.html">飛鳥山公園と赤羽自然観察公園</a></strong>　　　　　　　　　   　　1996年４月（22号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_7.html">群馬県甘楽町と東京都北区のネットワーク</a></strong>　　　　　   　1996年6月（23号）
<strong>変わらないことの美徳</strong>　　　　　　　　1996年11月（「草風」寄稿）
<strong>消えたヘアーの謎</strong>　　　　　　　　　   　 1997年6月（29号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_8.html">大阪寺町のデンデケデケデケ</a></strong>　　    　 1998年6月（35号）
<strong>今が修羅場よ！</strong>　　　　　　　　　　   　 1998年8月（36号）
<strong>＜愛の賛歌＞に涙する気分</strong>　　　   　 1998年12月（38号）
<strong>五月生まれの娘に贈る句</strong>　　　　     　1999年6月（41号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_5.html">新藤兼人監督『生きたい』の佯狂老人考</a></strong>　　 　  　 1999年12月（44号）
<strong>小劇場へのオマージュ</strong>　　　　　  　  　 2000年2月（45号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_9.html">笑いの哲人マルセ太郎を悼む</a></strong>　 　  　 2001年4月（52号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_6.html">黒田オサムとドンちゃん</a></strong>　　　　　 　   　2001年6月（黒田オサムパンフ）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_10.html">リース地獄脱出宣言</a></strong>　　　　　　　 　   　2002年5月（58号）
<strong>二人の旧友の死</strong>　　　　　　　　　    　　2003年2月（63号）
<strong>ひまわり娘たちの話を聴こう</strong>　　　     　2003年7月（65号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_11.html">ミニコミ書店の店主たち</a></strong>　　　　　　    　2003年11月（67号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_12.html">ミニシアターの愉しみ方</a></strong>　　　　　　    　2004年1月（68号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_17.html">ジャン・ユンカーマン監督「第９条を世界へ輸出しよう！」</a></strong>　　2005年7月（77号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_13.html">フォークソングの吟遊詩人・高田渡</a></strong>     　2005年9月（78号）
<strong>カフェ・オーナーになった三人娘</strong>　      　2006年9月（84号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_14.html">高田豊と石川三四郎</a></strong>　　　　　　　      　2007年6月（88号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_16.html">須賀敦子さんの,イタリア版「傘がない」</a></strong>　　　　　　　     　2007年8月（89号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_15.html">ドキュメンタリー映画監督佐藤真の死</a></strong>　2007年10月（90号）
<strong>高田渡生誕会５９</strong>　　　　　　　　　     　 2008年2月（92号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/06/post_18.html">草森紳一さん追悼ノート</a></strong>　　　　　　　　　2008年6月（94号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2009/02/post_21.html">古川豪に見たフォークの健在</a></strong>　　　　　　2008年10月（96号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2009/02/post_20.html">三浦半島・三崎の名物鮪屋商店街</a></strong>　　　2009年2月（98号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2009/04/post_19.html">草森紳一さんの散骨式と「高田渡誕生会６０」</a></strong>　　2009年4月（99号）]]></description>
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         <category>シティーライツ・ノート/目次</category>
         <pubDate>Mon, 20 Apr 2009 23:00:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>草森紳一さんの散骨式と「高田渡誕生会６０」</title>
         <description>☆三月十九日（木）草森紳一の一周忌、散骨式があり出かけた。一年前のお別れの会ではドラマチックな事が起きた。「おれは一生結婚なんかしないよ」と友人・知人にうそぶいていた草森さんに、じつは伴侶が居て、息子と娘、二人の成人した子供までいたってことが、会の終りの遺族の挨拶の際に披露されたからだった。その時、会場はドッとどよめいた。草森さんと親しい友人・知人たちもその事実を誰も知らなかったからだ。そんなわけで一瞬仰天したものの思えばいかにも草森さんらしい＜お別れの会＞だなあと妙に感心したものだった。今回の散骨式は遺族の御三方の主催で行われた。浜離宮の横合いの船付場から貸切の遊覧船に乗船すると、すぐに隅田川に出た。参列者は三十人ほどで元話の特集編集長の矢崎泰久さんや詩人の高橋睦郎さんの顔も見えた。草森さんの伴侶東海晴美さんが挨拶し散骨することになった経緯や散骨の手順を説明された。「昨晩、娘と二人で草森の骨をすり鉢にれ、擂り粉木でガリガリと粉にしました。女って凄いでしょ。」と笑顔でのユーモアたっぷりの挨拶だったが、やっぱり目が潤んでおられた。富山の薬のような小さな紙包みに入った草森さんの骨が参列者に配られた。そっと紙包みを開いてみたら、ちょっと茶褐色の草森さんの骨が粉薬みたいに収まっていた。船は草森さんが長年暮らした永代橋の袂のマンションが見える地点まで遡り、それから迂回し河口に向かい、レインボーブリッジをくぐり、お台場を廻って帰港するというコースで航行した。その間に参列者はそれぞれ好きな所で散骨をし、お別れするという趣向だった。天気の良い暖かい日で、参列者たちは散骨を済ませると、ビールや冷酒のカップを手にしてデッキに立ち“散骨クルージング”を愉しんだ。下船の際、忘れな草の小鉢を戴いた。草森さんが好きな花だったとか・・・・。人は死んだ後に分かる真実も少なくないなあと思ったりした。

☆四月四日（土）「高田渡生誕会６０」と題したコンサートが三鷹の武蔵野市民文化会館で開かれた。四年前に高田渡が亡くなった年の翌年から歌仲間たちが高田渡を偲んで毎年一回催してきたコンサートで、今年度のコンサート名称を「高田渡生誕会６０」としたのは、生きていたら、高田渡は今年六十歳の還暦を迎えるはずだったからだという。今回も三十人余の歌仲間が集い、献花するように各自の歌が一曲ずつ歌われ、午後二時半から八時過ぎまでロングランのコンサートがくりひろげられた。「高田渡さんの誕生会でぜひ歌いたいと思い、今朝大分から飛行機で飛んで来ました」と挨拶して、南こうせつが「神田川」を歌い、満杯の大ホールの観客を沸かせた。この催しは還暦の今回で終了するということで、打ち上げの飲み会にも大勢が集い深夜まで高田渡を偲ぶ会は盛りあがった。みんなと別れた後、京都から駆けつけた歌仲間と夜が明けるまで久いぶりに痛飲した。ああ今日（日）の午後には、またも大幅に遅れてしまった『街から』99号の校了があるなあ・・・と思いつつ。（『街から』99号編集後記）</description>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Mon, 20 Apr 2009 17:26:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三浦半島・三崎の名物鮪屋商店街</title>
         <description><![CDATA[<strong>三浦半島・三崎の名物鮪屋商店街　　　　本間健彦</strong>

☆先日、三浦半島の三崎へ行って来た。城ヶ島が目の前の漁港の町だ。本誌の兄弟誌『港町から』第2号〈浦賀・横須賀篇〉の取材で浦賀へ行った際、三崎で名物の鮪の定食でも食おうということになりスタッフと出かけたのだが、小さな港町なのにいつたい何十軒あるのだろうと唖然とするほど街じゅうが鮪屋だらけ。漁港の傍の市場も鮪の土産を売りにしている。だが、ウイークデーだったからか町中も市場も観光客はちらほらでこれでやってけるのかな……と余計な心配をしてしまった。聞けば、今は流通の関係で焼津（静岡県）に水揚げされる鮪が三崎に転送されているのだとか。それを「三崎鮪」と謳うのは今流行の産地偽装じゃないの？と文句言うほどの偽りとは思わなかったけれど、こういう街興しはさびしいなとは思った。地元編集委員の話だと（『港町から』は対象の港町の編集委員と協同作業で制作しているのが売り≠ﾅす！）「鮪もいいけれど、三崎には、シコ（カタクチイワシの別称）とか地ダコ（三浦だこ）の絶品があるのにあんまり知られていないのが残念だね。」とのことで、「打ち上げの時に食いにいきましょう」と約束してくれた。地産の食や情報にもっと注目したいですね。 
（『街から』98号　２００９．２．１０）

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         <link>http://www.machikara.net/event/2009/02/post_20.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 10 Feb 2009 17:29:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>古川豪に見たフォークの健在</title>
         <description>古川豪に見たフォークの健在　　　　　本間健彦

☆先日、京都在住のフォーク歌手古川豪さんのライブコンサートが西新宿の某所であるというので出かけてきた。古川さんの歌はささやかで素朴な日常の営みや思いを軽やかな調べで抒情的にうたっているものが多い。意外だったのは『ホタルの海』『海へ十二月』『若狭にて』『ウツボとタコ』など海をテーマにした歌が多いことだった。というのは古川さんは京都のひとで、京都には海がないものと勝手な思い込みをしていたからだった。でも、地図を見ると、京都にも（正しくは京都府というべきなのかな）海があるんですね。だから休日や時に思い屈したときなどは、豪さんも＜鯖街道＞をドライブして若狭の海に出かけているのでしょうね。
☆古川豪さんは、京都の北の外れの静かな商店街で薬屋さんを営んでいる。お父さんの代を継いだ生業の薬屋さんである。町の薬局は「チェーン店や大きな病院などの調剤をしている店の攻勢を受けて経営は大変ですよ」と豪さんは言っていた。この夏、「高田渡紀行」の取材で京都の古川豪さんを訪ねた際、店先で話を聞いたのだが、2時間程の間に近所の主婦らしい三人のお客さんがあったけれど、売れたのは香取線香と目薬が二組だったかな・・・・。お客さんが来ると、取材は中断することになるのだが、私は店主のように来客がうれしかった。そんな薬屋さんの主人でもある豪さんは、＜商店街の女の　意気地　きばり　はり切り／ねばり　切り盛り　しゃべり　やりくり／うつむいてなんかいられない／足をふんばり　背筋しゃっきり＞（『ふつうの街の女』）などといった商店街の応援歌みたいな歌もうたっていた。「じつは大切なギターを売ってしまいまして、これは東京の友達の借り物なんですよ」トークで豪さんは客を笑わせていたけど、まあ、あれはジョークだったのかな・・・。
☆その京都取材のとき、やはり高田渡の古くからの歌仲間だったという藤村直樹さん、ひがしのひとしさんにもお会いした。藤村さんは大病院の医師、ひがしのさんは鍼灸師だという。藤村さんは今年、老人医療制度に怒る人々をテーマにした『老人は国会突入を目指す』というＣＤをレコーディングしたが、早々に放送禁止歌になってしまったとか。無念にも高田渡さんは逝ってしまったが、京都の仲間たちは今も生業の合間に歌い続けている。そういう風に歌い続けていけるのが、フォーク・ソングの特性で、いいところなのだろう。（『街から』96号　２００８．１０．１０）

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         <link>http://www.machikara.net/event/2009/02/post_21.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Mon, 09 Feb 2009 17:30:49 +0900</pubDate>
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         <title>新宿、紀伊国屋書店 60ｓ 70ｓ</title>
         <description><![CDATA[<img alt="新宿紀伊國屋書店60ｓ70ｓ" src="http://www.machikara.net/event/img/img004.jpg" width="340" height="483" />
<strong>連続ブックフェア 「紀伊國屋書店と新宿」Vol.2 「〈熱き時代〉の新宿、新宿の〈いま〉」</strong>
2008年9月16日（火）〜11月30日（日）
<a href="http://booklog.kinokuniya.co.jp/jinbunya42/">紀伊國屋書店新宿本店・新宿南店</a>3階・5階・6階

じんぶんや小冊子特別版を限定2000部配布中！]]></description>
         <link>http://www.machikara.net/event/2008/10/_60_70.html</link>
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         <category>お知らせ</category>
         <pubDate>Sat, 11 Oct 2008 14:12:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>草森紳一さん追悼ノート</title>
         <description><![CDATA[<strong>草森紳一さん追悼ノート　</strong<strong>　（文・本間健彦）</strong>

☆新聞の朝刊を「死亡記事欄」から眼を通すようになったのはいつ頃からのことだろうか。新聞の死亡記事欄に掲載される人たちは斯界の著名人や各界で活躍された知名人だから、私などには無縁の方ばかりで、「あっ、この人亡くなったのか」と死亡記事を見てちょっと驚いたり何がしかの感慨を覚えたとしても、大半は新聞や雑誌やテレビなどでその名前や顔を知っていた人に過ぎない。にもかかわらず、「死亡記事欄」にまず眼を通すのは、私とは無縁の人だったにしても、同時代を生きて来た人の人生の終わり方というものが、どんな重大ニュースより目を引くことが少なくないからなのだ。
☆去る4月30日の日曜日の朝、いつものように朝刊の「死亡記事欄」にまず目を通した私は、そこで草森紳一さんの訃報に遭遇した。草森紳一さんについては、本誌83号（2006年7-8月号）で「われらの時代の＜雑文豪＞草森紳一の本を読もう」と題したインタビュー記事を書いているのでご記憶の読者もおられるだろう。その記事のなかでふれているけれど、草森さんとは、私が若い頃、雑誌『話の特集』や新宿のタウン誌『新宿プレイマップ』の編集者をしていたとき、「草森番」（草森さん担当の原稿取り）をつとめていたという間柄で、作家と編集者という関係だったのだが、同世代ということもあってその頃は友達感覚でお付き合いしていただいてきた。だが、近年はすっかり御無沙汰のしっぱなしで、あのインタビュー記事を書くために十数年ぶりにお会いしたのだった。それゆえ草森さんの訃報は、そんな私にとって、まさに遭遇だった。
☆朝日新聞の死亡記事には「20日、心不全で死去、70歳。通夜、葬儀は行わない」と記されており、東京新聞には「29日までに、心不全のため東京都江東区の自宅で死去」と報じられていた。いずれにせよ草森さんが死亡したのは20日以降で、前日の29日に発見されるまでの数日間、永代橋袂のマンションの自室で死の床にあったことになる。草森さんの自宅兼仕事部屋は7万冊余の万巻の書で立錐の余地もない有様だったというから、彼は書籍に埋もれて黄泉の国に旅立って逝ったのだろう。
☆草森さんの旧友で詩人の<strong>高橋睦郎</strong>さんは、5月21日付け東京新聞夕刊文化欄に<strong>「読む人　または書刑――草森紳一に」</strong>と題した追悼詩を寄せている。その一節を引かせてもらうとーー。

　　　<strong>食うための場所　寝るための空間など　
　　　書物に占領され　疾うに消え失せた　
　　　幾十幾百とない書物の塔の
　　　僅かな隙間(すきま)に　
　　　尻を置き　脚を抱いて　
　　　膝の上で読みつづける
　　　読んで夜もない　読みつづけて昼もない　
　　　読んで昨日もなく　読みやめず明日もない</strong>

と、書に殉じた草森紳一像を的確かつ鮮烈に謳っている。そして異能の友を、＜書物を創出した人間を自覚し　自らに課する刑罰　書刑そのまま屈葬＞と評し愛惜している。
☆草森紳一さんの死亡記事に遭遇した私は居た堪まれず、永代橋袂の彼のマンションを訪ねていた。部屋のドアが半開きしていて、狭い玄関先にまで書物が山積みされ、その一部が崩れ、居間への通路が本のトンネルと化している。半開きのドアの所まで崩れ落ちている数冊の本の上に女物の靴とハンドバックが置かれている。ドアの外に立っていた若い男に「どなたか部屋におられるのですか？」と訊ねると、「ええ、いま奥さんにゲラを探していただいているのです」と男は言った。どこかの編集者のようだった。「えっ、そういう女性(ひと)がいたのか・・・？」と、私はちょっと驚いたのだったが、そういうのも草森さんらしいなあ・・・、といくぶん重苦しい気分が晴れた。草森紳一さんは自分流の悦楽をこよなく愉しんだ人だったということを、ふと想い出したからだった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（2008年6月『街から』94号編集後記）

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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Fri, 13 Jun 2008 16:11:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ジャン・ユンカーマン監督「第９条を世界へ輸出しよう！」</title>
         <description><![CDATA[<strong>日常にある＜戦争＞の火種　（文・本間健彦）</strong>

☆わたしたちの、こんな小さな街の雑誌で「日本国憲法」の第9条の意義を考えるなんてちょっと大げさかなと思わないわけでもない。でも、一市民の義務として、それもありかと、たまにはこういう大きなテーマにもチャレンジしてみました。それにしてもお隣の板橋区高島平で起きた少年による父親・母親殺しは衝撃的でした。
9．11事件が起きた時に「これは戦争だ!」と,どこかのとんでもない大統領が騒ぎ立てたあの呪われた言葉を連想してしまった。
少年は父親を恐れ憎んでいたようです。父親は少年にとって圧制者のような存在だったのかも知れない。少年は追い詰められていたのかも知れないし、自分自身を過剰に追い込んでしまっていたのかも知れない。父親を倒さなければ自分自身の存立・自由が保てないと。で、父親を殺したのだろう。
昨今の犯罪には似たような事件が少なくない。短絡指向と感情の爆発。それが多くの場合、戦争や犯罪の引き金だろう。
確かにわたしたちの日常には戦争の火種は無数にあります。
けれども、少年は父親を殺すことで、果たして自分自身の存立や自由の確保ができたのだろうか？答えは問うまでもないでしょう。
戦争という無意味かつ空しい手段で紛争や問題を解決しようという悪癖を、わたしたち人類はいつになったら止められるのだろう？　　　　　

　<strong>（２００５年７月『街から』７７号・編集後記より）</strong>

＊『街から』７７号では、<strong>映画「日本国憲法」の監督・ジャン・ユンカーマンさんへのインタビュー記事「日本国憲法＜第９条＞を世界へ輸出しよう！」</strong>を掲載している。]]></description>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Sat, 10 May 2008 12:50:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ドキュメンタリー映画監督/佐藤真さんの死</title>
         <description><![CDATA[<strong>ドキュメンタリー映画監督/佐藤真さんの死　 （文・本間健彦）</strong>

☆ドキュメンタリー映画監督の佐藤真さんが、去る９月４日亡くなった。重い鬱病を発症して病院で加療中だったが、病室から抜け出し投身自殺を図ったのだという。享年４９。１５年前、『街から』創刊号に神田真理子さんが「＜川の民＞からの贈り物」と題したエッセイで、佐藤真監督のデビュー作品『阿賀に生きる』を紹介してくれたのが、佐藤さんの存在を知った最初だった。当時は北区に編集室があり、佐藤さんもその頃は北区に住んでいたので、時々お会いする機会があった。いつも優しい微笑を絶やさない人だったなあ、という印象がある。優しい微笑と優しい眼差しは、彼のドキュメンタリー映画を制作する基本的な視点でもあった。絵を描く障害を持った子供たちや大人たちをユーモラスに映像化した『まひるのほし』、難病を抱え３６歳の若さで亡くなった写真家・牛腸茂雄の人物写真・風景写真を淡々と追うことで、夭折した若い写真家の人生を見事にクローズ・アップした『ＳＥＬＦ　ＡＮＤ ＯＴＨＥＲＳ』、毎日の食事の残飯や魚の骨などを用いて無心に泥絵的なアートに取り組む障害を持った娘とその母親の日常を描いた『花子』など、佐藤監督の作品は、第一作の『阿賀に生きる』から一貫して優しい眼差しで、世の中の主流から取り残された人間を描いてきた。そういう手法で佐藤監督は、ドキュメンタリー映画の新しい地平を切り拓いてきたのである。けれども、生身の佐藤さんが、優しい微笑と優しい眼差しの内に抱えていた深い闇と怒りについても思いを致さないわけにはいかない。１０年前、『街から』（第２６号）に掲載した佐藤真監督のインタビュー記事の一節を紹介して、佐藤さんを偲び、御冥福を祈りたいと思う。

<strong>（２００７年１０月『街から』８９号）</strong>

<strong>＊佐藤真インタビュー記事の一節</strong>
佐藤　僕らの世代の東京っ子というのは高度成長の真っ只中に育ったせいか、いつも街が建設中だった、という感じをずっともってきた。そういうと何か希望のもてる時代に生きてきたみたいだけど、実際はしみったれた団地の片隅で少年時代を含めてずっと過してきた…（笑）いまおもえば、いつも建設中だった街というのは、いわば“マチ壊し”をしてたってことで、つまり“マチ殺し”だったんですね。
――　マチ壊し的な行為は、大都市だけでなく、水俣や、「阿賀に生きる」の舞台となった山村など地方の町や村にまで及んでいますね。
佐藤　そうですね。都市化社会の地方への波及により、地方が地方として成り立たなくなってきている。それも大問題です。
――　でも、「阿賀に生きる」の主人公たちのように、都市的なものに収奪され、傷つきながらも、まるで何事もなかったみたいに、自然のなかで悠々と生きている老人たちの姿はとても感動的でしたね。
佐藤　壊された街や村であっても、人はけなげに生きていくしかないんじゃないですか。
――　ならば、東京にも希望がもてますか？
佐藤　たぶん希望はもてないんじゃないかな。すごく雑駁な予測ですが、あと１０年もたつと、東京は、文化だけじゃなく、政治や経済の分野でも、アジアのなかでの地位が落ち込んでいく、と僕は見ているんですね。

<strong>（1996年12月『街から』２６号：　インタビュー　佐藤真「東京私観」より）</strong>






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         <link>http://www.machikara.net/event/2008/05/post_15.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Sat, 10 May 2008 11:48:47 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>須賀敦子さんの,イタリア版「傘がない」　</title>
         <description><![CDATA[<strong>須賀敦子さんの,イタリア版「傘がない」</strong>

☆須賀敦子さんの「雨のなかを走る男たち」（『トリエステの坂道』所収‥新潮文庫）というエッセイに、こんな一文がある。
「イタリアで暮らすようになって、ひとつ、びっくりしたことがあった。学生をふくめて、生活がぎりぎりという階級の男たちが傘をもっていないのだ。（中略）　イタリアでもすくなくとも二十年ほどまえまで、傘は一種の贅沢品だったのではなかったか。だいいち、傘屋というのが街にない。どこで売っているのだろう。そんなわけで、にわか雨にあったとき、上着の前を手で閉めて走る人種と、そうでない人種にわかれる。」
須賀さんのこの本が刊行されたのは１９９５年だから、その２０年前というと７０年代中頃までの話ということになるが、今はどうなのか？現イタリア在住の神田真理子さんに尋ねてみようと思っているうちに締め切りがきてしまった。
☆ところで、前記のエッセイには、著者がイタリア人の夫と結婚してまもないころ夕方にわか雨が降ったので市電の停留所まで傘をもって迎えに行くと、電車から降りて来た夫は、視線が合った筈なのに知らん顔をして通り過ぎ、雨のなかを両手できっちり背広の前を閉めて走っていった、というエピソードが綴られている。そして彼女の夫は書店に勤める優れた知識人であったけれど、下級鉄道員の家庭に育ったという出自であったということも。
☆わたしたちの国では、２０年前から誰もが傘を持っている。なのに格差は広がるばかり。私事ですが、父の日に娘から英国紳士が持つような傘をプレゼントされた。でも失くしそうなのでまだ使っていない。さて、この89号が出る頃は、参院選も終り、梅雨も明けているのでしょうが…。　
　　　　　　　　
<strong>(２００７年８月『街から』８９号)</strong>

]]></description>
         <link>http://www.machikara.net/event/2008/05/post_16.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Fri, 09 May 2008 23:01:44 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>高田豊と石川三四郎</title>
         <description>高田豊と石川三四郎　本間健彦

★高田豊が若い頃、フランス語の個人教授を受けた石川三四郎は「私が初めて自然と言ふものに憧憬を持ちはじめたのは、監獄の一室に閉じ込められた時のことである」という文章を書いている。それまでは自然というものに対して親しみを感じ得なかったのだが、「獄の一室にあって以来は庭の片隅のすみれにも愛恋を感じ、桐にも花のあったことを知り、其の美しい強い香にも親しみを感じたやうな理由で、自然と言ふものに深い感慨を感ずるようになったのである。」と。そうして石川三四郎は出獄すると戦前の社会主義者やアナーキストとしては珍しい＜半農生活者＞を志す。そんな石川の思想と生き方をかつて転向と批判した人もあったようだけれど、それは貧しい思想で、その答えはすでにでている。
★小生は幸にも獄中体験はないけれど、最近は目白の編集室の狭いベランダに置いた幾鉢かの草木に毎朝水差しするのが日課となつた。水をやると草木の歓ぶ表情が伝わってきてこちらの気持ちも嬉しくなるからだ。単に植木いじりするじいさんになっただけのことなのかも知れないが、＜シャバという獄＞からそろそろ出獄するトシになりつつあるのかな、と思ったりもする。
★わたしたち現代人は都市と産業社会の中で生きるしか術を知らない者たちが大半を占めているといっていい。格差社会の歪みは、都市と産業社会の歪みの露呈に過ぎない。烏籠で育てられた小鳥は籠から出ても自然の中で生きられないという。富国強兵を目指した日本の近代に淪落の青春期を過ごした高田豊の「五月の雨晴れ夕さびし…」と記した小詩の心境がむしろ懐かしいのはなぜだろう？　
（２００７年６月『街から』８８号）
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         <link>http://www.machikara.net/event/2008/05/post_14.html</link>
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Fri, 09 May 2008 18:48:15 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>フォークソングの吟遊詩人・高田渡　</title>
         <description><![CDATA[<strong>フォークソングの吟遊詩人・高田渡　（文・本間健彦）</strong>

<strong>タカダワタル的ライフスタイル再考</strong>

　世代論は好きではないけど、日本的社会に長年棲んでいると、世代というムラ社会も存在して、ある世代に属していない他の世代が村八分的な心理に追いやられる（もしかしたら自分で追いこんでいるだけなのかも知れないが）といったシーンも少なくない。たとえば、私は、フォークシンガー高田渡のファンではない。もっと正確にいえば、高田渡のレコードを熱心に聴きこんだことも、ライブを聴きに行ったこともない。これは単に高田渡の歌をよく聴いた世代に属していなかったという理由に過ぎないのだけれど、なんとなく日本的な文化現象に自分もはまっていただけなのかと、反省したりして寂しくなった。いい音楽に、世代とか、ジャンルとか、新しいとか古いとかなんて関係ないからだ。
　もちろん、高田渡の名前は知っていた。６０年代末から７０年代初期の時代は、私にとって特別の想いいれがあったから、あの時代の空気と気分を一杯に詰め込んでいた高田渡の唄は別に耳を傾けなくても聴こえてきた。１９６８年、１９歳のとき、高田渡は『自衛隊に入ろう』という唄でデビューした。こんな詞の曲である。
  自衛隊に入りたい人はいませんか／ひとはたあげたい人はいませんか／自衛隊じゃ人材をもとめてます／自衛隊に入ろう　入ろう　入ろう／自衛隊に入ればこの世は天国／男の中の男はみんな／自衛隊に入って花と散る
日本の平和を守るためにゃ／鉄砲やロケットがいりますよ／アメリカさんにも手伝ってもらい／悪いソ連や中国をやっつけましょう　
この曲はいろいろ物議をかもし話題を呼んだ。防衛庁から電話がかかってきて「ぜひうちのPRソングに使わせてくれないか」と申し出があったという。ところが、すぐあとに断りの電話も入った。ある組合の会合に呼ばれて、この唄をうたったら、「なんでこんな自衛隊讃歌を歌うんだ」と野次を浴びた。放送禁止曲にもなった。
　ちょっと時代背景をふりかえっておきたい。ちょうどベトナム戦争の末期でアメリカではベトナム戦争反対の運動が盛んになってきていた。日本でも大学紛争がいくつもの大学で起きていた。新宿の西口広場では若者たちのフォーク集会が盛り上がり、挙句の果ては機動隊に一掃されている。だが、自衛隊の存在は影が薄かった。今のように海外派兵などできる状況ではなかった。本気で「自衛隊に入りたい」などと志願する者は、都市の青年にはほとんどいなかったのではないか。それゆえ、自衛隊が大キャンペ−ンを繰り広げていたようで、高田渡は、なんとその宣伝文句を引用して、この曲を作ったというのだ。
  このころ台頭した日本のフォークソングは、プロテストソングとして脚光を浴びていたことを思い起こせば、そのジャンルの歌手のデビュー曲としては異色であり大胆不敵だった。当然の話、彼は、この曲を「反戦歌」「反軍歌」として創り、歌ったのだ。だが、この種のアイロニーは、白か黒かはっきりさせないと落ち着かない日本人には真っ当に理解する人は少ない。左右両翼から無粋な攻撃を受けやすい。でも、彼は歌いつづけた。
  しかし、近年、高田渡は、このデビュー曲を、「この歌の役割は終った」と、歌わなかったという。これは正解だろう。今日のようなネオ・ナショナリズムの勃興しつつある状況では、アイロニーなど掻き消され、「自衛隊ＰＲソング」になりかねないという不安があったからと思われる。

  高田渡は、１９４９年１月岐阜に生まれた。４人兄弟の末っ子だった。父高田豊は出版社に勤務していて、詩人でもあったという。母親は、渡が８歳のときガンで死去。その後、父子一家は上京し、下町の深川で暮らした。上京後、父親は労務者等の肉体労働に従事するようになった。父親は、夕方、帰宅すると、近所の一杯飲み屋に出かけ酒を呑んだ。渡は父に同伴し、横で晩飯をたべた。その父親も、渡が１８のときに死去。渡は、一時期、九州・佐賀の親戚に預けられ、当地で商業高校に入ったが、すぐに東京へ舞い戻った。そして新宿・若松町のぼろアパートに住み、昼間は印刷会社へ勤め、夜は定時制高校へ通った。（自伝『バーボン・ストリート・ブルース』より抜粋紹介）
  前述したように、高田渡は１９歳の年に、『自衛隊へ入ろう』という自作の唄でフォークシンガーとしてデビューしている。（１９６８年　第３回関西フォークキャンプ［京都］に出演）。年譜を見ると、それは単身上京し、自活を始めた翌年のことなのだ。このような状況の中で、あのデビュー曲が創られ歌われたことを考えると、果たしてあの唄は「反戦歌」
  「反軍歌」だったのだろうかという疑念も湧く。高田渡の意図をねじまげて解釈しようとしているわけではない。彼が「反軍歌」を創ったことを疑うつもりはない。だが、そのころの高田渡の心の中に「今のおれの状況は、自衛隊にでも入らなければ道が拓けないのではないか？」という気持ちが滓のように澱んでいなかったとは言いきれまい。日本中「中産階級」ばかりになった、といわれた高度成長時代だったけれど、その網から抜け落ちた少数派におれは属している、そんな思いが当時の高田渡にはあったのではないか。『自衛隊へ入ろう』という唄にこめられたアイロニーには、そんな複雑な思いや反撥もあったのではないか。そういう連想をしたのは、後年、高田渡が、連続射殺事件で死刑の執行を受けた永山則夫の詩を２篇（「手紙を書こう」「ミミズのうた」）を持ち歌にしていることに気づいたからだった。その一篇、「ミミズのうた」には、＜目ない　足ない　おまえはミミズ／暗たん人生に／何の為生きるの＞という詩句がみとめられる。また、「手紙を書こう」には、＜書いたら少しは／望みも湧いて／明日も恐がらなくとも／良いだろうに＞…そんな詩句がある。永山則夫は、他の著書同様、これらの詩も獄中で書いた。つまり、死刑囚の身になって文の才能が開花した。彼は、そのことを著書『無知の涙』で悔いているが、手遅れだった。
　高田渡が、永山則夫の詩を自分の唄に加えたのは、境涯に共感するものを感じたからであろう。ただし、高田渡は、永山則夫にはならなかった。それは、高田渡には、唄が、音楽があったからだろう。
　フォークソングは、ジャズやロック同様にアメリカからの輸入音楽である。フォークソングの一分野、プロテスト・ソングも同様だった。フォークソングとロックは、その時代の日本の若者を２分したポップ音楽だった。高田渡も、時代の子の一人としてブ−ムの輪に加わった。しかし、高田渡は、デビュー曲からすでにそうだったように、通り一遍のプロテストソングやカバーのフォークソングを歌うのではなく、初めから自分の唄を歌いつづけてきた。自作の唄だけでなく、金子光晴・木山捷平・三木卓・山之口貘・谷川俊太郎・ラングストン・ヒューズ等、国内外の詩人たちの詩に曲をつけて歌っている。さながら吟遊詩人という感じだ。
　フォーク・ブームは、とっくの昔に終焉している。当時のフォークの仲間たちの中には、その後ミュージシャンとして成功し“ビッグ”になっている者もいるが、大勢の者が姿を消している。高田渡は、“ビッグ”にもならず、消えもしなかった。そういう生き方が貫けたのは、本人が語っているように「僕は、死ぬまで歌い続けるのが歌い手だと思っている。歌わなくなったときが終わりだ。」という信念があったからだろう。
　音楽関係者の間では、８０年代には「ねこのねごと」（８３）というアルバムを一枚しか出さなかった高田渡に対して、「沈黙の１９８０年代」という評価があったらしい。それに対しご本人はこう述べている。「僕は沈黙など一度たりともしていない。だいたい十年間も沈黙していたら、食えずにとっくに死んでいるはずである。１９８０年代という時代は、僕がライブに専念していた時代だ。一年の半分以上は、ライブで全国各地を回っていた。距離に換算すれば、たぶん一年間で日本を二周ぐらいしていると思う。ただし、ギャラは安かったから、日本を二周しても年収は普通の月給取り以下だっただろう。この時代、ライブに明け暮れていたのは、ライブをやっているほうがおもしろかったからだ。」（『バーボン・ストリート・ブルース』より）
　高田渡の８０年代は、全国津々浦々を回る、「吟遊詩人」の時代だったのだ。先年、このような高田渡のライブ行脚を描いた『タカダワタル的』というドキュメンタリー映画が製作・上映され、渡ファンを喜ばせた。この映画にちょっと面白いシーンがあった。その日のライブの場所は東京・青山なのだが…。そのときの語りのさわりを紹介しておこう。
「ええ〜、今日は、あたしには似合わない場所でやらしてもらってます。」（笑）「うちの奥さんが言うわけです。あんた、青山なんかめったに行くことないんだか行っといでと…。」（爆笑）「ええ、それでボクは三鷹の方に住んでますので、家を出るとき吉祥寺あたりでしっかりと飲み食いしてきました。こちらで飲み食いしたのでは、はっきり言いますと、当たってしまうような気がしまして…。」（爆笑）「ええ〜、少しの時間ではありますけどやらしてもらって、さっさと帰ります。青山とか赤坂とか、この辺にはろくな奴いませんから…。ほとんど普通じゃないからネ！」（大爆笑）そんな落語みたいな語りだった。このときは歌っていないが、高田渡は、「銭がなけりゃ」という唄で、＜東京はいい所さ　眺めるなら申し分なし　住むなら青山に決まってるさ　銭があればネ！」とも歌っている。
　高田渡は、青山を東京の象徴としてとらえ、自らの東京観・街観で語っているのだが、これは彼の人生観にも通じているのである。

　　　　　　　　　　　　　　　　　（２００５年９月『街から』７８号）
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         <category>シティーライツ･ノート</category>
         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 15:49:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ミニシアターの愉しみ方</title>
         <description><![CDATA[
<strong>ミニシアターの愉しみ方（本間健彦）</strong>

<strong>暗闇の中で他者と時代を共有する密かな愉しみ</strong>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

　東京の街にちょっとしたミニシアター・ブームが起きるのは八〇年代に入ってからのことだったと記憶する。すでに映画の斜陽化が喧伝されていた。何処の街の中心地にも＜娯楽の王様＞として長らく君臨してきた映画館が将棋倒しみたいに廃館している。そんな時代に、選手交替して登場したのがミニシアターだった。
　ミニシアターは、客席数１００席前後の小さな映画館である。当たり前の話だが、ただ小さい映画館ということだけを売り物にしていたわけではない。座り心地の良い椅子。観やすい客席の配置。入れ替え制。いい音響設備。カウンターバーなどを設けたオシャレなホール。きれいなトイレ。そういう点に気を配ってきたのがブームを呼んでいた頃のミニシアターの特色だった。メーンターゲットは、高学歴の若い女性たちだという。彼女たちはお気に入りのブティックにでも行くような気分で、ミニシアターに出かけているのかも知れない。
　上映される作品はといえば、新聞広告などに何段か抜きでど派手に宣伝しているハリウッド映画ではなく、ヨーロッパ製の映画が主力で、作品の内容も現代人の心の襞をテーマにした芸術的な映画が多いという傾向。近頃の若い人たちは本を読まなくなったとはよく聞く話だけれど。ミニシアターの観客は、小説を読むような感覚で映画を鑑賞しているのかも知れない。そんな印象があった。
　ところが映画界の状況は、斜陽なんてどこ吹く風って感じで、さらに進化する。シネコンという恐竜・怪獣まがいの呼び名の映画館が出現するのだ。ご存知の方も多いと思うが、シネコンとはシネマ・コンプレックスの略称で、要するに５館とか１０館とか複数の映画館が一同に集まったビル内の映画館街。最先端の再開発ビルなどに誕生している新業態映画館である。シネコンは１館、１館の規模も大きくなく、ファッショナブルな映画館として造られているので、ミニシアターを集めた新しいタイプの映画館と思っている人もいるみたいだが、内容は全然異なったもの。喩えていえば、スターバックスの店と単独店のコーヒーショップとの違いである。もっとも０３年４月にオープンした話題の六本木ヒルズのシネコンには、１館、ミニシアター系の映画館があるという。不勉強でまだ見学しいていないので未確認情報だけれど、たぶんシネコンの中に１館だけ、ミニシアターで上映されているようなマイナーな作品を専門にかける映画館を造ったのであろう。
都市は、資本の多角化・野合化の戦場である。そんな現象にいちいち驚いていては生き抜いていけない。必要なことは、自分の目と感性で自分にとって好ましいものを見つけ選択することである。現象だけで判断していたのでは見えるものしか見えない。肝心なのは、その作り手や担い手のビジネス作法・考え方・生き方を見ておくことである。今回見て回ったミニシアターは恣意的に選んだ数館に過ぎない。けれども、ミニシアターの担い手からの話を通し、ミニシアターの特性と現況を知ることができた。それをご紹介しよう。 
　＊

　＜ポレポレ東中野＞
　０３年９月、ＪＲ東中野駅北口駅前に「ポレポレ東中野」というミニシアターがオープンした。だが同館は新規開業したわけではない。映画フアンの方ならご存知と思うが、実はインディーズ映画の拠点として親しまれてきた「ＢＯＸ東中野」が、その前身だからである。同館は去る４月に閉館したのだが、館名を変え再興されたのだった。閉館の理由は、テナントとして同地のビル地下１階に入居し「ＢＯＸ東中野」の運営にあたっていた会社の家賃の滞納が限度を超えてしまったためといわれる。
　再興したのは、同ビルのオーナーである本橋成一。彼は著名な写真家であり、近年は「ナージャの村」「アレクセイの泉」の映画監督としても知られる人だ。本橋は、閉館した映画館を自身がオーナーとなって復活しようと決意した思いを次のよう語っている。
「僕の実家はすぐ近くの山手通りで小さな本屋だった。ところが道路の拡張で立ち退きになり、その補償金でここの土地を買い、この７階建てのビルを造ったのですね。その時、ＢＯＸ東中野の代表だった代島さんが、地下１階を借りて映画館を造りたいと言ってきた。周囲はみんな反対だった。映画館にするためには２層分地下を掘る必要があり、建築費が１億円高くなること。もし映画館がダメになった場合、他の業種のテナント貸しが難しいこと。などが理由でした。でも、僕は映画の黄金時代に少年期を過ごした“映画大好き人間”なんですね。街に一軒は小さな映画館があるべきだ！という主張もしてきた。だから、みんなの反対を押し切って映画館を造ったんですよ。」
　本橋にとって、小さな映画館は＜街の灯＞だったのかも知れない。それゆえ、ミニシアターの経営の大変さは知り抜いていたが、その灯を燈しつづけようと覚悟したのだろう。
　本橋は再興するにあたって、支配人を公募しているが、約４０人の応募者の中から抜擢した大槻貴宏は、このあとに紹介する下北沢のミニシアター「トリウッド」の経営者だった。つまり掛持ちで「ポレポレ東中野」の支配人となっているのだ。その狙いについて本橋はこう説明している。「映画製作はビデオの登場で非常に幅広くなった。山形映画祭などでも、７割はビデオ作品ですよ。大槻さんのやっている「トリウッド」は、ビデオで短編映画を作っている若い人たちの作品を対象にしたミニシアターなんですね。大槻さんに両館をみてもらうことで、「ポレポレ東中野」がステップ・アップを目指す若い映画作家たちの登竜門にもなればと思っています。」

＜ラピュタ阿佐ヶ谷＞
「ラピュタ」は９８年の暮れにオープンしている。ＪＲ中央線阿佐ヶ谷駅北口の飲み屋街と住宅地の境界のような立地に誕生したこの映画館の建物は西洋の童話の本にでてくるような意匠と佇まいでひときわ人目を惹く。オーナーの才谷遼はその裏手の貸しビル内でアニメ関連の出版社を経営している。
そこは元アジア人相手の木造の木賃宿だった。敷地面積５５坪。事情があって持主がその土地を手離したいと声をかけてくれた時、才谷は、映画「もののけ姫」の解説本を出版して３６万部も売れる大ヒットを飛ばし、思いがけず大金が転がり込んでいた。で、その土地を買うことにした。さて、その土地で何をやろうかと考えた時、才谷はすぐに映画館をやろうと思ったという。たぶんそれが彼の夢だったのだろう。
「ラピュタ」のある建物は、地下１階地上３階建てで、劇場（Ｂ１）、ホール・ロビー（１Ｆ）、映画館（２Ｆ）、レストラン（３Ｆ）といった施設で構成されている。主役格の「ラピュタ」は客席数５０席の試写室規模のミニシアター。自社ビルで、全館直営なのだから、流行のシネコンにしてもよかったのだろうが、１館というところが何とも奥床しい。ミニシアタ−の経営の困難さを覚悟していた才谷は、たった１館５０席の映画館の経営を何とか維持していくために、そのような施設構成を選択したのだという。
　才谷遼は、日大芸術学部映画学校を卒業後、一時期映画の仕事に従事していた。岡本喜八監督の不肖の弟子だったという。だが映画では食えなかった。結婚する際に映画界から足を洗い、アニメやマンガの編集の仕事を手がけるようになった。彼のミニシアターに賭ける情熱はおそらくそういう履歴から発したものなのだろう。
　ミニシアターには洋画の上映館が多いのだが、「ラピュタ」は５０年代から６０年代半ば頃までの日本映画を中心にした上映が行われてきた。きちんと人間を描いた水準の作品が多いからだという。「斜陽化したのは古い日本映画の産業システムで、あの頃の日本映画を観たいというお客様は遠方より阿佐ヶ谷まで足を運んでくれますよ」と才谷は手ごたえを、そのように証言している。

＜トリウッド＞
　下北沢にある「トリウッド」は、９９年にオープンしている。ファッションビル２階の映画館で、客席数は４７席。情報誌「ぴあ」のＣｉｎｅｍａを見ると、オフシアターに分類されていて＜短篇映画館＞というキャッチが付けられている。
　もう少し分かりやすい括り方をすると、＜若い映画作家たちの作品上映＞を打ち出しているミニシアターと位置づけることができる。上映の方式は２通りあって、ひとつは館側が選んでプログラムした作品の上映であり、もうひとつは時間貸しの上映というコースである。ちなみに後者の貸し出し料金を見ておくと、１時間のワク貸しが原則で、入場料金が５００円の場合は平日１万円、土日及び祭日は１万５千円だという。作品は１６ミリのフイルムでもビデオ作品でもいいし、ドキュメンタリーでも劇映画でもいい。ただし、５０分以内の作品というのが条件とか。短篇映画館という触れ込みは、そういう点に由来しているのだろう。
前述したように、同館の主宰者大槻貴宏は、昨年９月に「ポレポレ東中野」の支配人として迎えられている。つまり２館を掛け持ちで運営しているのだ。まず、「トリウッド」のようなシステムのミニシアターを作った理由について、大槻は次のようの説明している。
「映画は斜陽とかいわれてきましたが、映画を創りたいという若い人たちは実は増えているんですよ。ビデオ技術の発達によりビデオで映画が撮れるようになったことも大きい。つまり映画は今や誰にでも創れる。特別なものじゃないんですね。問題は映画を創ってもそれを上映する場所がないことだった。そうだ、ライブハウスのような映画館を造ろう」と、そういう発想から「トリウッド」は生まれたのである。立ち上げには約４千万円を要したという。ベンチャー企業支援の企画が通り、通産省からの助成金が受けられたことで信用が付き、銀行から融資が受けられたので実現したという。
　大槻は、「ポレポレ東中野」の支配人を兼務した理由については、こう語っている。「若い映画作家たちにとってトリウッドは第一歩を印す場所なんですね。腕を上げトリウッドで観客を一杯にできたら、次はポレポレ東中野に挑戦してみよう。そういうステップアップできるシステムが是非作りたかったのです」。大槻は現在３６歳。大学経済学部を卒業後、アメリカの大学へ留学。映画学科の専門課程で２年間映画プロデュースを学んでいる。ミニシアターの進化は、そういう新世代の映画人により促進されているのだ。

　＜アツプリンク・ファクトリー＞
　「アップリンク・ファクトリー」（以下ファクトリーと略）は、渋谷区神南の何の変哲もないオフイスビルの５階にある。ビル入口のあまり目立たない置き看板を見逃すと同館を探すのは厄介になる。見知らぬオフイスビルにまぎれこんでしまったかなという不安に駆られる。だが同館に一歩足を踏み込むと世界は一変する。カウンターバーを兼ねた受付があり映画関係のチラシや雑誌や単行本の無造作に置かれたコーナーがある。客席数は５０席。形態も材質も異なる不揃いの椅子が並んでいる。ソファーやマッサージ台みたいなものも置かれている。知る人ぞ知る隠れ家的な映画館。そんな感じのミニシアターである。
　このファクトリーは、下北沢のトリウッド同様、「ぴあ」ではオフシアターに分類されているが、普通の映画館のように映画だけを上映しているわけではない。作家のトークショーやミニ・コンサートなどのイベントも行われている。「映画は定番プログラムとしてはレイトショーの枠で設定しています。うちが配給している内外のインディペンデント系の作品が中心です。それを軸に様々なイベントを組んでいます。」（同館プロデュース担当・倉持政晴の話）。映画は新作・旧作で若干異なるということだが、１２００円・ワンドリンク付きがスタンダード料金。イベントのトークショーやコンサートは、２〜３０００円・ワンドリンク付きという設定が多いという。館側の意向に沿えば、自主製作の映画上映等のスペース貸しもしている。基本料金は平日は１時間１万円。週末・土日・祝日は同１万５千円。プロジェクターなど機材の貸し出し料金は別途だという。
　オープンは９７年。主宰の浅井隆は、元劇団天井桟敷の演出家だったという経歴の人だ。寺山修司が亡くなり、劇団が解散すると、浅井は映画の配給会社を始めた。近作の配給作品では、イギリスのデレク・ジャーマン監督の未公開作品「ウォーレクイエム」や、黒澤清監督の「アカルイミライ」（同社製作作品）などが話題を呼んでいる。「アットホームな感じで、お客さんにリラックスして映画やインベントを愉しんでもらえる場所にしていきたい。それがファクトリーの方針ですが、お客様のダイレクトな反応を見聞できるアンテナショップとしての機能も見逃せません。」と倉持はファクトリーの特性を語っている。

 今や映画は映画館でしか観られないという状況ではない。テレビでもレンタルビデオでもパソコン（ＤＶＤ）でも観ることができる。実際に映画を映画館で観ない映画フアン人口は統計がないだけの話しで増えているに違いない。巷間喧伝されてきた映画産業斜陽説は、喩えていえば、どこの家にも家風呂ができて町の銭湯が立ち行かなくなったという事例に似ていなくもない。そういう状況下でミニシアターが生き続け進化しているのはなぜだろう？端的にいえば、その小さなメディアでは、マスメディア的な映画館では観ることができない映画を観ることができ、時代のビビッドな空気に触れることができるからではないか。ミニシアターには、今もなお他者と暗闇を共有する密かな愉しみが健在なのである。

（2004年1月『街から』68号）
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         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 15:41:35 +0900</pubDate>
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