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    <title>街から舎 | 編集室から</title>
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    <updated>2011-01-16T05:00:57Z</updated>
    <subtitle>エディターズスタジオ街から舎のページです。ここでは様々なイベントなど編集室からお知らせしたいトピックなどを掲載していこうと思います。</subtitle>
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    <title>高田渡の主治医・フォーク歌手藤村直樹さん追悼</title>
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    <published>2010-06-22T05:56:07Z</published>
    <updated>2011-01-16T05:00:57Z</updated>
    
    <summary>１０６号　シティライツ・ノート 　高田渡の主治医・フォーク歌手藤村直樹さん追悼 ...</summary>
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            <category term="シティーライツ･ノート" />
    
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        <![CDATA[１０６号　シティライツ・ノート

　高田渡の主治医・フォーク歌手<strong>藤村直樹さん追悼</strong>
<strong>「君こそは友」という仲ではなかったけれど……。　本間健彦</strong>

　京都在住の医師、フォーク・シンガーでもあった藤村直樹さんが去る四月二十七日亡くなった。六十二歳だった。藤村さんは、フォーク歌手の故高田渡さんの盟友のひとりであり、渡さんの主治医としても知られていた。私が藤村さんと知り合ったのは三年前、本誌に連載した「高田渡紀行」京都篇取材の時だった。この時が初対面だったのだが、私は藤村さんのマンションのゲストルームに二日間居候させてもらい、たいへんお世話になった。藤村さんが肝臓がんという厄介な病を抱えていることはその時に本人から聞いた。それなのに彼はワインを水のように呑んでいた。三条の鰻屋で昼食を一緒にした時、「あっ忘れてた。ちょっと失礼」と藤村さんは言って腹を出しインシュリン注射を打ち、終わると何事もなかったように酒を呑んでいた。
　昨年四月、藤村さんは「高田渡誕生会６０」に出演するために上京し、渡さんのレクイエムとして作ったという新曲『君こそは友』を歌った。そして打上げの飲み会終了後、藤村さんは同伴した奥さんと小宅に寄ってくれ、泊まってもらうはずだったのに、結局夜明けまで飲んで話しこんでしまった。
　藤村さんは、時折、思い出したように携帯電話をかけてきたが、飲み屋からでもかけているのか大抵酔っぱらった口調だった。そのたびに私は、「少し酒は慎んだほうがいいんじゃないですか」と、釈迦に説法するような御託を並べたりしたが、「大丈夫です。ぼくは勤務中は呑んでいませんから……」と禅問答みたいなジョークを返された。
　藤村さんは、高田渡への追悼文のなかに「ぼくは身体については渡の主治医だったが、心については渡がぼくの主治医だったと思う。」「たがいに主治医として、患者として、二〇年近くを付き合うことになってしまった」と記している。この二人は、共に音楽をこよなく愛し、多くの仲間たちから愛されていたけれど、余人には窺い知ることのできない大きな心の憂さと闇を抱えていたのだろう。
　藤村さんは、『街から』九八号（二〇〇九年二月）に「老人は国会突入を目指す」と題したエッセイを寄稿している。この一文は前年に出した同名のＣＤについて藤村さん自身が記したライナーノーツだった。この歌には、医療や介護の荒廃に怒りを燃やした老人たちが〈よたよた　よぼよぼ　こけつ　まろびつ　ぜいぜいと　這いずりながら　政府を倒すために　国会突入を目指す〉といった漫画チックな老人蜂起の姿がうたわれている。その昔のプロテストソングという感じの歌ではない。むしろブルースだ！飛礫(つぶて)を投げつけるような過激な歌詞がぶつけられているけれども、現実はそんな歌の告発なんか遥かに追い抜く勢いで悪化しているのですよ！というのがこの歌にこめた藤村さんのメッセージだった。
　今年の三月二十日と二十一日の両日、京都のライブハウス捨(じっ)得(とく)で藤村直樹さんの「中休みライブ」と称したコンサートが開催された。案内状や本人の電話での説明では、しばらくの間音楽活動を中断し、医師に専念したいので……という趣旨で企画されたコンサートのようだったが、じつは私は、「お別れの会」に参列する覚悟でそのコンサートに馳せ参じた。高石友也・小室等・中川五郎・古川豪・ひがしのひとし・いとうたかお・・・など藤村さんの親しい歌仲間がおおぜい参加しており、二日間にわたる長丁場のなかなかごきげんなライブだったのだが、私は心から愉しめなかった。主役の藤村さんのあまりに憔悴した姿を見るのは辛かったからだ。予期していたとおり、それは藤村直樹さん自身が最期の渾身の力を振り搾ってプロデュースした「お別れの会」のように思えてならなかったからで、実際にこれが藤村さんのラストコンサートとなってしまったのだった。
　思えば、私は藤村さんと、そのラストコンサートの時に短い時間会ったのを含めて僅かに三度しか会っていなかった。とても「君こそは友」という仲ではなかったのだ。そうではあるのだけれど、藤村直樹さんのような人物と出会えたことをとても嬉しく思っている。「お疲れ様！｣と声がかけられないのが何とも寂しい。　（『街から』１０６号　２０１０年６月~７月号）
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    <title>フォークの神様♂ｪ林信康へ向けた黙示録　　　　</title>
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    <published>2010-06-21T05:46:59Z</published>
    <updated>2010-06-21T05:54:39Z</updated>
    
    <summary>シティーライツ・ノート 「山谷のキリスト者」が記録してきた ??フォークの神様?...</summary>
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    </author>
            <category term="シティーライツ･ノート" />
    
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        <![CDATA[シティーライツ・ノート
<strong>「山谷のキリスト者」が記録してきた
フォークの神様♂ｪ林信康へ向けた黙示録　　　　　　　　
　本間健彦</strong>

　広い世間には、たぶんその名をそれほど知られていないけれど、ひとたびその人の存在を知れば、おっ！と思わず息をのんでしまうような、そんな凄い人物が在(い)るものだ。京都長岡京在住の田頭道登(たがしらみちのり)さんなども、その一人だろう。いったいどんな人物なのだろうか。
　田頭道登の人物像と足跡は、彼がこれまでに書いた三冊の本――『山谷キューバフォーク』(一九七九年刊)、『岡林信康黙示録』(一九八〇年刊)、『私の上申書―山谷ブルース&#8212;』(二〇〇四年刊)を読めば、ほぼ全貌を読み取ることができる。これらの著書はいずれも自分史として綴られているが、内容は単に自分の生い立ちを回想的に記したというものではない。彼が二〇代から三〇代にかけて身を投じて関わり体験した六〇年代&#12316;七〇年代初頭の日本社会は、第二次世界大戦の敗戦を切り抜けて復興を果たし、高度経済成長期に突入した時代で、一方では公害問題や炭鉱閉山に伴う労働争議や日米安保条約反対闘争が沸騰するなど、高度経済成長の様々なひずみが露呈し、戦後民主主義が曲がり角の危機を迎えるといった激動の時代だった。
　田頭道登は、この時代の坩堝（るつぼ）といっても過言ではない山谷で日雇い労働者として三十代の独身時代を過し、六〇年代末から七〇年代初頭にかけては若者たちが新しい表現の舞台として、また不条理な社会に対するプロテストの武器として開拓したフォーク・ソング・ムーブメントに関わっている。そのような体験を克明に記した田頭の自分史は、その時代のドキュメンタリーであり、すぐれたノンフイクション作品として読むことができる。またこれら三冊の著書をいずれも自費出版していることにも著者の強い自負と意気込みを見て取ることができるだろう。
　田頭道登は、一九三二年（昭和七）生まれ。豊後水道を隔て九州が見渡せる愛媛県三瓶（みかめ）町の出身である。前記の三冊の本は、いずれも自分史の体裁で書かれているが、生い立ちに関しては、「生誕して二〇日ばかりで里親に預けられた」とか、「五〇年のクリスマスに洗礼を受けた」といった記述があるのみで、詳細は記されていない。注釈を付けると、田舎のプロテスタント教会で洗礼を受けているのは十八歳の時と知れる。理由は記されていないが、たぶん求道心の強い感受性の豊かな青年だったのであろうことがしのばれる。
　道登は、一九五三年・二十一歳の時に父親と喧嘩をして家出している。この彼の初陣は惨憺たるものだった。何とか大阪まで辿り着いたものの、伝道師を志して飛び込んだ教会にあっさり門前払いを喰らい、何の当てもなかったが東京へ行こうと夜行列車に乗った。東京までの切符を買うと、すでに財布は空っぽで弁当代も無い始末。そんな初陣というか、自立へ向けた旅立ちだったのである。
　上京後、田頭は、新聞配達や呉服関係の仕事に従事し自活の道を模索しているが、充実感が抱けないどころか、むしろ虚しさがいや増すばかり。日々の暮らしに追われているうちにたちまち十年近い歳月が流れた。そんな生活から脱出しようと思い立ち、当時の流行り言葉で言えば、「蒸発人間」となり、山谷へ転がりこんだ。
　一九六三年、田頭三十一歳の時、彼はドヤ暮らしを始め、日雇い労働者として働き始めたのである。高度経済成長時代へ邁進している最中であり、しかも東京オリンピック開催前夜で東京の街はビルや道路などの建設ブームで湧いていたから、仕事にあぶれることはなかった。だが、仕事はどれも過酷な肉体労働ばかりで、そのうえ山谷の日雇い労働者は世間から蔑視され、差別され、落伍者のように扱われた。一日の労働を終え、帰る処はドヤで、そこは畳一枚敷きの押入れのようなスペースで立ち上がることもできない。おまけに南京虫との共棲が当たり前という環境なのだ。その頃、夏になると夏祭りのように山谷で暴動事件が頻発していたのは、そんな情況から生じていたのである。
　注目すべき点は、田頭が、単に仕事を失って困窮した末、落ちぶれ果てて山谷に漂着したわけではないという点であろう。彼は敢えて山谷入りした理由をつぎのように記している。
〈「ぼくは、山谷のドヤ街（簡易宿泊所）に住んで、伝道してるんだよ」と、東京の浅草北部キリスト教会の中森幾之進牧師の話をきいて山谷を尋ね、それっきりいわゆる「蒸発人間」となった。〉（『山谷キューバフォーク』）
　つまり田頭は、山谷のドヤ街に「イエス」を発見し、その中森牧師に導かれるように山谷へ赴いているのである。そしてもうひとり当時の山谷には、中森牧師と一緒に伝道活動をしていた伊藤之雄牧師という人物がいた。この頃、二人の牧師は、日本基督教団隅田川伝道所を設立しているが、田頭は同所の書記に任命されている。このほか田頭は、山谷労働者協力会、山谷地区学習会、小さなバラ子供会、地域誌『人間広場』の編集など、諸活動に関わっていただけでなく、『山谷のキリスト者』というミニコミ誌をガリ版刷りで週に一回発行している。もちろん、これらの活動は生活の資を得るための日雇い労働の合間を縫って行われていた作業だった。
　田頭は、山谷で〈人間が、この社会でいかに尊いものか、それと共に、どれほど疎外され、抑圧され、苦しみを与えられ続けているかを教えられた。〉と述べていて、〈山谷こそ、私を救い、前進せしめ、私の精神と肉体をギリギリに追いこみ、人間社会について開眼せしめた場所〉であり、自分は〈山谷大学〉の学生であったのだと書いている。（『私の上申書[山谷ブルース]』）
　そして田頭道登は、この山谷でフォーク歌手としてデビューする前の神学生時代の岡林信康と出会うことになる。田頭の本には、岡林からの私信が沢山紹介されているが、岡林青年の真摯な青春像がうかがえ感動を覚える。岡林信康は牧師の子息で、牧師になろうと、同志社大学の神学部に入学した。だが、次第に自分が進もうとしている世界にムシャクシャするようになり、自分をブッこわしたいという衝動に駆られるようになる。収録されている岡林の手記には山谷へ行こうと思い立った心境がつぎのように記されている。
〈ちょうどその年の夏、うちの教会に来ていた札つきの非行少女が、あることで警察にあげられました。その少女をめぐって、「教会は、そんな子の来る所じゃない」という声が、教会員の中におこりました。信徒の偽善とエゴイズム……それに、彼女を恐れて関わっていくことをしなかった自分、自分の持っていたと思う信仰……既成の教会に対する反発と、自己自身のキリスト教信仰に対する疑問、劣等感がとうとう爆発し、一九六六年八月の終りに「山谷」で活動している牧師に会いたい気持ちと、ヤケクソ半分の、どうでもなりやがれ的な気持ちで山谷に飛び込んだわけです。〉（『人間広場』７０年２月・ｂW）
　田頭の本には、その裏付けがこんなふうに記録されている。〈（六六年）このころ、岡林信康君（当時、同志社大学神学生）が、消沈しきって、山谷の私達を訪れた。労働センター前の私の宿泊していたドヤでの生活で、私が上、彼が下段だった。一泊百六十円の前払いであった。彼は稼いだ金でボクシングのグローブを買って滋賀県近江八幡の実家（教会）へ帰って行った。〉
　翌年夏にも岡林は再来していて、つぎのように記されている。〈六七年の夏、岡林君は、同じ神学部の平賀久裕君と共に山谷に来た。平賀君も山谷の現実には驚いたようだった。坊主頭の彼は、ドヤでウイスキーをコップであおって「神は死んだ！そう言ったニーチエも死んだ！｣と、大声で酔っぱらい叫んでぶったおれた。現在の教会の不甲斐なさ、神の死んだ教会のあり方を彼は神学部の「夏季研修報告」で告発した。このとき岡林君は、山谷で質流れのギター（三千二百円）を買って近江八幡へ帰った。〉（『私の上申書&#8212;山谷ブルース&#8212;』）
　　<strong>今日の仕事はつらかった
　　あとは焼酎あおるだけ
　　どうせ山谷のドヤ住まい
　　ほかにすることありゃしない</strong>　
　この詞は、岡林信康のデビュー曲として知られる『山谷ブルース』の一節で、この時の山谷体験から生まれた歌だった。田頭の本には、この歌の誕生の経緯がつぎのように記されている。〈京都に帰った平賀から、山谷の体験を綴った一傍観者の作による『山谷ブルース』）という詞が送られて来た。私はこれを「山谷のキリスト者」（第三号）に掲載した。〉
　この冊子は岡林にも送られた。それを読んだ岡林から、山谷の田頭につぎのような手紙が寄せられた。その一節を引用する。〈山谷からかかえて帰ったギター。こいつがとんだ事を引き起こしました。自分でギター弾きながら作った歌が一五曲あまりになったのですが、去る十一月二十三日、草津で高石友也という知る人ぞ知るフォーク歌手（釜ヶ崎にいた事があるそうです。立教大学八年生！)が反戦集会に来た時、俺も自作の歌二曲を歌わせてもらいました。（中略）週報（山谷のキリスト者）に記されていた平賀の詞（山谷ブルース）にさっそく曲を作ってみました。かなりの線の曲ができたによって、また聞かせます。たのしみにしとれ。〉
　岡林信康はこの頃からフォーク・ソングを歌い始めた様子がわかるし、『山谷ブルース』の誕生の楽屋裏が読み取れる。
　その後、田頭は山谷に別れを告げ、岡林の故郷・近江八幡に移住し、そこでも日雇い労働に従事しながら、岡林と共に被差別部落の解放運動に加わっている。そしてその運動の中で〈彼らと共に『チューリップのアップリケ』『がいこつの歌』『友よ』などが作られた。これらの歌は、集った仲間の共同の作詞、作曲である。それ故に『友よ』は、部落解放同盟滋賀連合会の歌となった。〉（『私の上申書&#8212;山谷ブルース&#8212;』）という重要な証言をしている。
　一方の当事者である岡林信康の証言や反論が無いために、一体どちらが正解なのか、明確に判定を下すことはできないのだけれど、既存の岡林のレコード等では、『山谷ブルース』も前記の歌も、「作詞・作曲／岡林信康」と記されている。田頭さんにお会いした時に確認したところ、「『山谷ブルース』に関しては、平賀君と岡林君との間で了解しあっているようなので盗作ではないのだが……」と語っていた。けれども、著書の中では〈伝説への逆義をしなければならないのは、『山谷ブルース』の原作詞は平賀久裕君であり、補作詞が岡林信康君だということである。私が生きているうちに証言しておかなくてはならない。〉（『私の上申書&#8212;山谷ブルース&#8212;』）ときっぱり言い切っている。
　田頭道登と岡林信康は、あの時代の山谷で出会い、年齢差など関係ない同志的な友情で結ばれた仲だった。その絆が、なぜ、ほどけ、はぐれてしまったのか。田頭は三冊の著書で繰返しその問題に迫ってきた。それは岡林信康に向けての黙示録と言えるものなのだが、これまで岡林信康からの答えは聴こえて来ない。
　田頭さんにお会いした時に、平賀久裕さんの消息を尋ねたところ、「平賀君はタクシー運転手をしていて、時々、京都のライブハウスで歌っていますよ」と伝（おし）えてくれた。平賀さんの歌もぜひ聴いてみたいと思った。
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    <title>高田渡の歌「漣」の原詩作者、詩人・高木護さんのこと</title>
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    <published>2010-02-12T03:35:57Z</published>
    <updated>2010-02-12T03:47:56Z</updated>
    
    <summary>高田渡の歌「漣」の原詩作者、詩人・高木護さんのこと ☆　小生にとっての新年早々の...</summary>
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            <category term="シティーライツ･ノート" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.machikara.net/event/">
        <![CDATA[<strong>高田渡の歌「漣」の原詩作者、詩人・高木護さんのこと</strong>

☆　小生にとっての新年早々の慶事は、なんと言っても詩人の高木護さんにお会いできたことだった。大変失礼な話だが、高齢の方と仄聞していたからすでに故人なのかなと半ば諦めていたので、お元気な様子でお会いできたことがなんとも嬉しかった。さて、高木護さんは、どんな詩人なのか。今回の「シティライツノート」はページ数が少なく、ご紹介できなかったので、この場で、その横顔だけでもお伝えしておこう。
☆　高木護さんは一九二七年、熊本県生まれ。一四〜五歳のころ、丸善書店博多支店の店員として就職、詩や小説など文学作品に親しむことに目覚めた。戦争中は南方で兵役に服し、熱病に倒れ危篤状態に陥ったために死体収容室に放置されるに至ったが、奇跡的に生還したという。戦地から無事故国に帰還できたものの、熱病の後遺症にたたられて定職には就きそこなった。山番・伐採手伝い・日雇い土方・炭焼き・闇市場番人・トラック助手・ちゃんばら劇団の斬られ役・古着屋の手伝い・商人宿の番頭・飯場の人夫・沖仲仕・コークス拾い・占い師・ニセ坊さん・密造酒売り・うどん屋の手伝い等々、百数十種余の職業を転々とした。こうした職業遍歴の合間をぬい、高木さんは九州の各地を渡り歩き、野山や土管の中で野宿するという放浪の旅――彼の言葉でいえば「ぶらぶら歩き」を続けてきた。そんな高木護さんの「生活の柄」こそが、異彩の漂白詩人として知る人ぞ知る存在となっている土壌だったのである。
☆　また、経歴を見ると、高木護は、谷川雁・森崎和江・松永伍一・川崎洋といった面々と共に、一九五〇年代から六〇年代にかけて九州久留米で丸山豊が主宰していた伝説的な詩の同人誌「母音」のメンバーでもあったことも注目に値する。それともうひとつ運命の赤い糸のようなものを感じたのは、高木護の本を一社で十点近く出版している未来社の創業社長西谷能雄という人が、高田豊が戦前京都の出版社弘文堂に勤めていたころの同僚だったということだった。こんなところにも高田渡との奇縁を思わないわけにはいかない。
☆　高木護さんの短い詩をひとつ紹介しておこう。詩集『天に近い一本の木』所収の「どぶ川」と題した詩です。

家の前を
どぶ川が流れている
親子四人
一汁一菜
志をひくくして　
ゆめもなく
一日を生きながらえ
灯を消して
眠りにつく　
どぶ川は
夜明け方までせせらぎになる　

（文・本間健彦　『街から』104号編集後記より）
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    <title>フォークソングの吟遊詩人・高田渡の勇み足</title>
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    <published>2010-02-11T12:44:01Z</published>
    <updated>2010-06-21T10:11:46Z</updated>
    
    <summary>「フォークソングの吟遊詩人・高田渡の勇み足」　文･本間健彦 高田渡と父・豊――こ...</summary>
    <author>
        <name>machikara</name>
        
    </author>
            <category term="シティーライツ･ノート" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.machikara.net/event/">
        <![CDATA[<strong>「フォークソングの吟遊詩人・高田渡の勇み足」　文･本間健彦</strong>
高田渡と父・豊――この父子を主人公にした本が出版されたばかりの、こんな時期に、こんな記事を書くのは著者として心苦しいのだけれど、物書きの端くれを自認している者としてはやっぱり見て見ぬふりはできないし、書かなければならないという業を背負っているのだろう。で、その顛末を記すことにした。
本誌で連載の時にお読みになっている方はご記憶かとおもうのだが、私は、この高田渡父子の物語の最終章で高田渡の持ち歌の一つである「漣」と題した歌詞を紹介している。この歌は、一人息子漣さんが幼少のころの、父と子の微笑ましい交流シーンを唄ったもの――いや朗読したもので、私は詩としてもとても好きだったからだ。さらに付け加えると、この歌には、いかにもタカダワタル的な父と子の情愛の姿がうかがえ、高田渡と父・豊の、父子の物語をしめくくるうえでまさにうってつけのエンディング・ソングだとおもったからなのである。
「漣」は、長い間、高田渡の作詞の歌として知られてきた。この歌に原詩作者からクレームがついているという情報を耳にしたのは、高田渡が他界して二年後に、私が本誌に「高田渡紀行」の連載を始めてしばらくしてからのことだった。だが、その時点では、原作の詩人名も原作詩に関しても情報としてマスコミ等に流されていたわけではなく、事実確認をする手立てもなかったので、ゴシップ情報として聞き流した。
だが昨年末、この単行本を上梓する際、中川五郎さんにライナーノーツを依頼し、ゲラを読んでもらったところ、「あの歌は、渡さんの作詞ではなく、高木護さんという詩人の詩なので、そう明記しておいたほうがいいですよ」と忠告を受け、とりあえず最終稿で「この歌詞は詩人・高木護の詩をアレンジしたものだという。」と註のような一文を付して下版した。そのようにしか書けなかったのは、その時はまだ原作者の存在も問題の原詩も確認できなかったからだった。
しかし本が出版されてから、そのことが次第にひどく気になり始め、私は図書館で高木さんの著作を数冊借りて読み、月並みの言葉で恥じ入るが、目からウロコが落ちた。高木護の詩やエッセイは、いずれも高田渡好みの「生活の柄」で紡がれた燻し銀のような作品だったからである。そして私は、詩壇ではマイナーな存在らしいこの詩人の詩の素晴らしさに逸早く気づいてその詩を唄っている高田渡の感性と慧眼に、改めて感心したのだった。
その高木護さんに、先日やっとお会いすることができた。もしかしたらすでに物故者なのかな？　とほぼあきらめていたので夢のようだった。八〇歳代の高齢とお聞きしたが、とてもお元気そうだった。この時に私は初めて高木さんから問題の経緯をうかがうことができ、原詩を見せていただいた。残念ながら紙数がないので、以下に要点だけを記す。
肝心の原詩は、「秋」と題す、つぎのよう詩だった。〈<strong>子供</strong>とぼくはいる／ふたりでいる／<strong>草の上</strong>に坐っている／空を見上げている／――見えるものは、みんな他人のものだよ／――うん／親のぼくの頭も弱いが／どうやら／子供の頭もよわいようである／――見えないものがきっとぼくらのものだよ／――うん／――はらが減ったか／――うん、へった〉
高田渡の「漣」の歌詞を並べて記せば一目瞭然なのだが、詞の変えられている箇所は上記原詩のゴシックの部分で、〈漣〉〈野原〉〈<strong>息子の漣も似ているらしい</strong>〉となっている。私は「アレンジした」と記したが、これはアレンジというものではない。
高田渡は、高木護の詩を四曲唄っている。「夜の灯」（アルバム『石』所収：一九七三年）、「雨の日」「漣」（『フイッシイン・オン・サンデー』所収：一九七六年）、「相子」（『渡』所収：一九九三年）。このうち「漣」だけが、――作詞：高田渡――となっている。ついで、アルバムではなく、高田渡が逝去して二年後に出版された追悼ムック本『高田渡読本』（音楽出版社刊）の中の「高田渡の詩」と題した欄に、この「漣」が掲載されている。
高木護さんは七〇年代初頭、「高木さんの詩を唄わせてほしい」という依頼を受け、高田渡と初めて会った。まだ息子の漣さんが赤ん坊の頃だったという。吉祥寺の「いせや」でも何度か一緒に飲んだ。そんな仲だったけれど、アルバムも贈って来ないので、原詩の「秋」が「漣」と名が変えられ、作詞：高田渡になっていることにも気づかなかった。高木さんが知人からの通報で、その事実を知ったのは『高田渡読本』に原詩が「漣」という題で掲載された時だった。それで代理人が高田渡の事務所に抗議の連絡をしたが、埒があかず、うやむやになってしまったという。
高田渡は、なぜ「漣」という曲に限って原詩の作者名を明記せずに、自作の詞としてしまったのか？　すでに故人となっている高田渡にその理由を質すすべはない。憶測の解釈をすれば、この詩があまりにも自分の心情にぴったりだったために、自分の詩のように思い込んでしまったのではないか。高田渡の真骨頂は、自分が唄ってみたい優れた詩を選び抜き、その詩を〈高田渡の歌〉として見事に結晶させ数々の名曲を残してきた点にあり、そんなところにも〈フォークソングの吟遊詩人〉と称されてきた由縁もあったのだろう。しかし、この一件は明らかにレッドカードものであり、表現者として許されることでもない。高田渡は、そのうち天界で高木護さんに再会したら、この勇み足の一件に関しては詫びを入れるべきだろう。
（『街から』104号 2010年２月〜３月号）]]>
        
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    <title>『高田渡とその父・豊の「生活の柄」』社会評論社より出版</title>
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    <published>2010-01-16T15:29:40Z</published>
    <updated>2010-01-16T15:34:28Z</updated>
    
    <summary> ☆今年も早師走ですね。この一年、私は何をしてきたのだろう？人並みにそんなことを...</summary>
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            <category term="シティーライツ･ノート" />
    
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☆今年も早師走ですね。この一年、私は何をしてきたのだろう？人並みにそんなことを思ってしまう年の瀬です。オバマさんには大いにがっかりし、鳩山さんもオバマさんみたいに失望させないで・・・と、柄にもなくそんな心配をしたりしている今日この頃ですが、それにしても姑・小姑の嫁いびりみたいなことをしている自民党さんは醜い限りでうんざりですね。
☆クリスマスにはもう縁がないと諦めていたら、老兵に嬉しいプレゼントが舞い込んで来ました。本誌に連載してきました『フォークソングの吟遊詩人　高田渡紀行』が、単行本として社会評論社という出版社から刊行されます。じつは前号の編集後記欄で、この本を街から舎で出すと申し上げましたので、土壇場で状況が変わった理由について、簡単に説明をします。
☆単行本化の話は、連載終了後、大手出版社の何社かに出版の検討をしていただきましたが、結局全て流れてしまいました。売れそうもない本は出せないという評価基準で弾かれたようです。で、腹を決めて「自主出版します」と前号で発表したのでしたが、捨てる神あれば拾う神あり、というコトワザはまだ健在だったようで、「この本、うちで出しますよ！」と名乗り出てくれた編集者がなんと存在したのです。私は老兵ですから、「出版は編集者が出したい本を作る仕事」という古い信条の持主です。なので、そんな熱意を持つ若武者のような編集者の出現に狂喜しまして、自主出版の旗はあっさり降ろし、社会評論社さんへ出版をお願いをしたわけです。
☆単行本のタイトルは『高田渡とその父・豊の「生活の柄」』となります。連載は取材を兼ねたものでしたから、読みづらかった点もあったのではないかとおもいましたので、単行本化するにあたっては大幅に改稿し、大河小説のように面白く読めるようにしました。ですから、『街から』の読者の方も、花嫁になった娘を見るつもりで、この単行本を読んでいただきたいと願っています。
☆定価千八百円。十二月二十五日発売予定で、神保町の三省堂や池袋・新宿のジュンク堂では平積みで置いてもらえそうですから、早く読んでみたいという方はこれらの大型店に出向いてください。なお、初版の稿料として現物支給を受けた分を当舎でも販売しますので、ご希望の方はお申し込みください。送料は負担します。
☆関連情報ですが、ＮＨＫ教育テレビの「知るを楽しむ」という番組で、来年
二月、高田渡さんの話が四回にわたって放映されるとのことです。この番組を担当するＮＨＫ京都放送局のディレクターの方から、「企画の参考に読みたい」と連載記事掲載分をワンセットお買い上げいただきました。映像媒体と書籍のちがいをつぶさに確認できるいい機会と楽しみです。（本間健彦）

        
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    <title>シティ・ライツ・ノート／目次</title>
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    <published>2009-04-20T14:00:42Z</published>
    <updated>2009-04-24T08:55:23Z</updated>
    
    <summary>シティ・ライツ・ノート　（文・本間健彦） 飛鳥山公園と赤羽自然観察公園　　　　　...</summary>
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            <category term="シティーライツ・ノート/目次" />
    
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        <![CDATA[<strong>シティ・ライツ・ノート　（文・本間健彦）</strong>

<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_3.html">飛鳥山公園と赤羽自然観察公園</a></strong>　　　　　　　　　   　　1996年４月（22号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_7.html">群馬県甘楽町と東京都北区のネットワーク</a></strong>　　　　　   　1996年6月（23号）
<strong>変わらないことの美徳</strong>　　　　　　　　1996年11月（「草風」寄稿）
<strong>消えたヘアーの謎</strong>　　　　　　　　　   　 1997年6月（29号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_8.html">大阪寺町のデンデケデケデケ</a></strong>　　    　 1998年6月（35号）
<strong>今が修羅場よ！</strong>　　　　　　　　　　   　 1998年8月（36号）
<strong>＜愛の賛歌＞に涙する気分</strong>　　　   　 1998年12月（38号）
<strong>五月生まれの娘に贈る句</strong>　　　　     　1999年6月（41号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_5.html">新藤兼人監督『生きたい』の佯狂老人考</a></strong>　　 　  　 1999年12月（44号）
<strong>小劇場へのオマージュ</strong>　　　　　  　  　 2000年2月（45号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_9.html">笑いの哲人マルセ太郎を悼む</a></strong>　 　  　 2001年4月（52号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_6.html">黒田オサムとドンちゃん</a></strong>　　　　　 　   　2001年6月（黒田オサムパンフ）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_10.html">リース地獄脱出宣言</a></strong>　　　　　　　 　   　2002年5月（58号）
<strong>二人の旧友の死</strong>　　　　　　　　　    　　2003年2月（63号）
<strong>ひまわり娘たちの話を聴こう</strong>　　　     　2003年7月（65号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_11.html">ミニコミ書店の店主たち</a></strong>　　　　　　    　2003年11月（67号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_12.html">ミニシアターの愉しみ方</a></strong>　　　　　　    　2004年1月（68号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_17.html">ジャン・ユンカーマン監督「第９条を世界へ輸出しよう！」</a></strong>　　2005年7月（77号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/04/post_13.html">フォークソングの吟遊詩人・高田渡</a></strong>     　2005年9月（78号）
<strong>カフェ・オーナーになった三人娘</strong>　      　2006年9月（84号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_14.html">高田豊と石川三四郎</a></strong>　　　　　　　      　2007年6月（88号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_16.html">須賀敦子さんの,イタリア版「傘がない」</a></strong>　　　　　　　     　2007年8月（89号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/05/post_15.html">ドキュメンタリー映画監督佐藤真の死</a></strong>　2007年10月（90号）
<strong>高田渡生誕会５９</strong>　　　　　　　　　     　 2008年2月（92号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2008/06/post_18.html">草森紳一さん追悼ノート</a></strong>　　　　　　　　　2008年6月（94号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2009/02/post_21.html">古川豪に見たフォークの健在</a></strong>　　　　　　2008年10月（96号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2009/02/post_20.html">三浦半島・三崎の名物鮪屋商店街</a></strong>　　　2009年2月（98号）
<strong><a href="http://www.machikara.net/event/2009/04/post_19.html">草森紳一さんの散骨式と「高田渡誕生会６０」</a></strong>　　2009年4月（99号）]]>
        
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    <title>草森紳一さんの散骨式と「高田渡誕生会６０」</title>
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    <published>2009-04-20T08:26:49Z</published>
    <updated>2010-01-16T12:15:54Z</updated>
    
    <summary>☆三月十九日（木）草森紳一の一周忌、散骨式があり出かけた。一年前のお別れの会では...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.machikara.net/event/">
        ☆三月十九日（木）草森紳一の一周忌、散骨式があり出かけた。一年前のお別れの会ではドラマチックな事が起きた。「おれは一生結婚なんかしないよ」と友人・知人にうそぶいていた草森さんに、じつは伴侶が居て、息子と娘、二人の成人した子供までいたってことが、会の終りの遺族の挨拶の際に披露されたからだった。その時、会場はドッとどよめいた。草森さんと親しい友人・知人たちもその事実を誰も知らなかったからだ。そんなわけで一瞬仰天したものの思えばいかにも草森さんらしい＜お別れの会＞だなあと妙に感心したものだった。今回の散骨式は遺族の御三方の主催で行われた。浜離宮の横合いの船付場から貸切の遊覧船に乗船すると、すぐに隅田川に出た。参列者は三十人ほどで元話の特集編集長の矢崎泰久さんや詩人の高橋睦郎さんの顔も見えた。草森さんの伴侶東海晴美さんが挨拶し散骨することになった経緯や散骨の手順を説明された。「昨晩、娘と二人で草森の骨をすり鉢にれ、擂り粉木でガリガリと粉にしました。女って凄いでしょ。」と笑顔でのユーモアたっぷりの挨拶だったが、やっぱり目が潤んでおられた。富山の薬のような小さな紙包みに入った草森さんの骨が参列者に配られた。そっと紙包みを開いてみたら、ちょっと茶褐色の草森さんの骨が粉薬みたいに収まっていた。船は草森さんが長年暮らした永代橋の袂のマンションが見える地点まで遡り、それから迂回し河口に向かい、レインボーブリッジをくぐり、お台場を廻って帰港するというコースで航行した。その間に参列者はそれぞれ好きな所で散骨をし、お別れするという趣向だった。天気の良い暖かい日で、参列者たちは散骨を済ませると、ビールや冷酒のカップを手にしてデッキに立ち“散骨クルージング”を愉しんだ。下船の際、忘れな草の小鉢を戴いた。草森さんが好きな花だったとか・・・・。人は死んだ後に分かる真実も少なくないなあと思ったりした。

☆四月四日（土）「高田渡生誕会６０」と題したコンサートが三鷹の武蔵野市民文化会館で開かれた。四年前に高田渡が亡くなった年の翌年から歌仲間たちが高田渡を偲んで毎年一回催してきたコンサートで、今年度のコンサート名称を「高田渡生誕会６０」としたのは、生きていたら、高田渡は今年六十歳の還暦を迎えるはずだったからだという。今回も三十人余の歌仲間が集い、献花するように各自の歌が一曲ずつ歌われ、午後二時半から八時過ぎまでロングランのコンサートがくりひろげられた。「高田渡さんの誕生会でぜひ歌いたいと思い、今朝大分から飛行機で飛んで来ました」と挨拶して、南こうせつが「神田川」を歌い、満杯の大ホールの観客を沸かせた。この催しは還暦の今回で終了するということで、打ち上げの飲み会にも大勢が集い深夜まで高田渡を偲ぶ会は盛りあがった。みんなと別れた後、京都から駆けつけた歌仲間と夜が明けるまで久いぶりに痛飲した。ああ今日（日）の午後には、またも大幅に遅れてしまった『街から』99号の校了があるなあ・・・と思いつつ。（『街から』99号編集後記）
        
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    <title>三浦半島・三崎の名物鮪屋商店街</title>
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    <published>2009-02-10T08:29:07Z</published>
    <updated>2009-04-20T08:29:50Z</updated>
    
    <summary>三浦半島・三崎の名物鮪屋商店街　　　　本間健彦 ☆先日、三浦半島の三崎へ行って来...</summary>
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        <![CDATA[<strong>三浦半島・三崎の名物鮪屋商店街　　　　本間健彦</strong>

☆先日、三浦半島の三崎へ行って来た。城ヶ島が目の前の漁港の町だ。本誌の兄弟誌『港町から』第2号〈浦賀・横須賀篇〉の取材で浦賀へ行った際、三崎で名物の鮪の定食でも食おうということになりスタッフと出かけたのだが、小さな港町なのにいつたい何十軒あるのだろうと唖然とするほど街じゅうが鮪屋だらけ。漁港の傍の市場も鮪の土産を売りにしている。だが、ウイークデーだったからか町中も市場も観光客はちらほらでこれでやってけるのかな……と余計な心配をしてしまった。聞けば、今は流通の関係で焼津（静岡県）に水揚げされる鮪が三崎に転送されているのだとか。それを「三崎鮪」と謳うのは今流行の産地偽装じゃないの？と文句言うほどの偽りとは思わなかったけれど、こういう街興しはさびしいなとは思った。地元編集委員の話だと（『港町から』は対象の港町の編集委員と協同作業で制作しているのが売り≠ﾅす！）「鮪もいいけれど、三崎には、シコ（カタクチイワシの別称）とか地ダコ（三浦だこ）の絶品があるのにあんまり知られていないのが残念だね。」とのことで、「打ち上げの時に食いにいきましょう」と約束してくれた。地産の食や情報にもっと注目したいですね。 
（『街から』98号　２００９．２．１０）

]]>
        
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    <title>古川豪に見たフォークの健在</title>
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    <published>2009-02-09T08:30:49Z</published>
    <updated>2009-04-20T08:31:28Z</updated>
    
    <summary>古川豪に見たフォークの健在　　　　　本間健彦 ☆先日、京都在住のフォーク歌手古川...</summary>
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            <category term="シティーライツ･ノート" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.machikara.net/event/">
        古川豪に見たフォークの健在　　　　　本間健彦

☆先日、京都在住のフォーク歌手古川豪さんのライブコンサートが西新宿の某所であるというので出かけてきた。古川さんの歌はささやかで素朴な日常の営みや思いを軽やかな調べで抒情的にうたっているものが多い。意外だったのは『ホタルの海』『海へ十二月』『若狭にて』『ウツボとタコ』など海をテーマにした歌が多いことだった。というのは古川さんは京都のひとで、京都には海がないものと勝手な思い込みをしていたからだった。でも、地図を見ると、京都にも（正しくは京都府というべきなのかな）海があるんですね。だから休日や時に思い屈したときなどは、豪さんも＜鯖街道＞をドライブして若狭の海に出かけているのでしょうね。
☆古川豪さんは、京都の北の外れの静かな商店街で薬屋さんを営んでいる。お父さんの代を継いだ生業の薬屋さんである。町の薬局は「チェーン店や大きな病院などの調剤をしている店の攻勢を受けて経営は大変ですよ」と豪さんは言っていた。この夏、「高田渡紀行」の取材で京都の古川豪さんを訪ねた際、店先で話を聞いたのだが、2時間程の間に近所の主婦らしい三人のお客さんがあったけれど、売れたのは香取線香と目薬が二組だったかな・・・・。お客さんが来ると、取材は中断することになるのだが、私は店主のように来客がうれしかった。そんな薬屋さんの主人でもある豪さんは、＜商店街の女の　意気地　きばり　はり切り／ねばり　切り盛り　しゃべり　やりくり／うつむいてなんかいられない／足をふんばり　背筋しゃっきり＞（『ふつうの街の女』）などといった商店街の応援歌みたいな歌もうたっていた。「じつは大切なギターを売ってしまいまして、これは東京の友達の借り物なんですよ」トークで豪さんは客を笑わせていたけど、まあ、あれはジョークだったのかな・・・。
☆その京都取材のとき、やはり高田渡の古くからの歌仲間だったという藤村直樹さん、ひがしのひとしさんにもお会いした。藤村さんは大病院の医師、ひがしのさんは鍼灸師だという。藤村さんは今年、老人医療制度に怒る人々をテーマにした『老人は国会突入を目指す』というＣＤをレコーディングしたが、早々に放送禁止歌になってしまったとか。無念にも高田渡さんは逝ってしまったが、京都の仲間たちは今も生業の合間に歌い続けている。そういう風に歌い続けていけるのが、フォーク・ソングの特性で、いいところなのだろう。（『街から』96号　２００８．１０．１０）


        
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    <title>新宿、紀伊国屋書店 60ｓ 70ｓ</title>
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    <published>2008-10-11T05:12:08Z</published>
    <updated>2008-10-11T05:49:52Z</updated>
    
    <summary> 連続ブックフェア 「紀伊國屋書店と新宿」Vol.2 「〈熱き時代〉の新宿、新宿...</summary>
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            <category term="お知らせ" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.machikara.net/event/">
        <![CDATA[<img alt="新宿紀伊國屋書店60ｓ70ｓ" src="http://www.machikara.net/event/img/img004.jpg" width="340" height="483" />
<strong>連続ブックフェア 「紀伊國屋書店と新宿」Vol.2 「〈熱き時代〉の新宿、新宿の〈いま〉」</strong>
2008年9月16日（火）〜11月30日（日）
<a href="http://booklog.kinokuniya.co.jp/jinbunya42/">紀伊國屋書店新宿本店・新宿南店</a>3階・5階・6階

じんぶんや小冊子特別版を限定2000部配布中！]]>
        
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    <title>草森紳一さん追悼ノート</title>
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    <published>2008-06-13T07:11:08Z</published>
    <updated>2008-06-13T07:30:16Z</updated>
    
    <summary>草森紳一さん追悼ノート　　（文・本間健彦） ☆新聞の朝刊を「死亡記事欄」から眼を...</summary>
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            <category term="シティーライツ･ノート" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.machikara.net/event/">
        <![CDATA[<strong>草森紳一さん追悼ノート　</strong<strong>　（文・本間健彦）</strong>

☆新聞の朝刊を「死亡記事欄」から眼を通すようになったのはいつ頃からのことだろうか。新聞の死亡記事欄に掲載される人たちは斯界の著名人や各界で活躍された知名人だから、私などには無縁の方ばかりで、「あっ、この人亡くなったのか」と死亡記事を見てちょっと驚いたり何がしかの感慨を覚えたとしても、大半は新聞や雑誌やテレビなどでその名前や顔を知っていた人に過ぎない。にもかかわらず、「死亡記事欄」にまず眼を通すのは、私とは無縁の人だったにしても、同時代を生きて来た人の人生の終わり方というものが、どんな重大ニュースより目を引くことが少なくないからなのだ。
☆去る4月30日の日曜日の朝、いつものように朝刊の「死亡記事欄」にまず目を通した私は、そこで草森紳一さんの訃報に遭遇した。草森紳一さんについては、本誌83号（2006年7-8月号）で「われらの時代の＜雑文豪＞草森紳一の本を読もう」と題したインタビュー記事を書いているのでご記憶の読者もおられるだろう。その記事のなかでふれているけれど、草森さんとは、私が若い頃、雑誌『話の特集』や新宿のタウン誌『新宿プレイマップ』の編集者をしていたとき、「草森番」（草森さん担当の原稿取り）をつとめていたという間柄で、作家と編集者という関係だったのだが、同世代ということもあってその頃は友達感覚でお付き合いしていただいてきた。だが、近年はすっかり御無沙汰のしっぱなしで、あのインタビュー記事を書くために十数年ぶりにお会いしたのだった。それゆえ草森さんの訃報は、そんな私にとって、まさに遭遇だった。
☆朝日新聞の死亡記事には「20日、心不全で死去、70歳。通夜、葬儀は行わない」と記されており、東京新聞には「29日までに、心不全のため東京都江東区の自宅で死去」と報じられていた。いずれにせよ草森さんが死亡したのは20日以降で、前日の29日に発見されるまでの数日間、永代橋袂のマンションの自室で死の床にあったことになる。草森さんの自宅兼仕事部屋は7万冊余の万巻の書で立錐の余地もない有様だったというから、彼は書籍に埋もれて黄泉の国に旅立って逝ったのだろう。
☆草森さんの旧友で詩人の<strong>高橋睦郎</strong>さんは、5月21日付け東京新聞夕刊文化欄に<strong>「読む人　または書刑――草森紳一に」</strong>と題した追悼詩を寄せている。その一節を引かせてもらうとーー。

　　　<strong>食うための場所　寝るための空間など　
　　　書物に占領され　疾うに消え失せた　
　　　幾十幾百とない書物の塔の
　　　僅かな隙間(すきま)に　
　　　尻を置き　脚を抱いて　
　　　膝の上で読みつづける
　　　読んで夜もない　読みつづけて昼もない　
　　　読んで昨日もなく　読みやめず明日もない</strong>

と、書に殉じた草森紳一像を的確かつ鮮烈に謳っている。そして異能の友を、＜書物を創出した人間を自覚し　自らに課する刑罰　書刑そのまま屈葬＞と評し愛惜している。
☆草森紳一さんの死亡記事に遭遇した私は居た堪まれず、永代橋袂の彼のマンションを訪ねていた。部屋のドアが半開きしていて、狭い玄関先にまで書物が山積みされ、その一部が崩れ、居間への通路が本のトンネルと化している。半開きのドアの所まで崩れ落ちている数冊の本の上に女物の靴とハンドバックが置かれている。ドアの外に立っていた若い男に「どなたか部屋におられるのですか？」と訊ねると、「ええ、いま奥さんにゲラを探していただいているのです」と男は言った。どこかの編集者のようだった。「えっ、そういう女性(ひと)がいたのか・・・？」と、私はちょっと驚いたのだったが、そういうのも草森さんらしいなあ・・・、といくぶん重苦しい気分が晴れた。草森紳一さんは自分流の悦楽をこよなく愉しんだ人だったということを、ふと想い出したからだった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（2008年6月『街から』94号編集後記）

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    <title>ジャン・ユンカーマン監督「第９条を世界へ輸出しよう！」</title>
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    <published>2008-05-10T03:50:12Z</published>
    <updated>2008-05-10T04:39:11Z</updated>
    
    <summary>日常にある＜戦争＞の火種　（文・本間健彦） ☆わたしたちの、こんな小さな街の雑誌...</summary>
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            <category term="シティーライツ･ノート" />
    
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        <![CDATA[<strong>日常にある＜戦争＞の火種　（文・本間健彦）</strong>

☆わたしたちの、こんな小さな街の雑誌で「日本国憲法」の第9条の意義を考えるなんてちょっと大げさかなと思わないわけでもない。でも、一市民の義務として、それもありかと、たまにはこういう大きなテーマにもチャレンジしてみました。それにしてもお隣の板橋区高島平で起きた少年による父親・母親殺しは衝撃的でした。
9．11事件が起きた時に「これは戦争だ!」と,どこかのとんでもない大統領が騒ぎ立てたあの呪われた言葉を連想してしまった。
少年は父親を恐れ憎んでいたようです。父親は少年にとって圧制者のような存在だったのかも知れない。少年は追い詰められていたのかも知れないし、自分自身を過剰に追い込んでしまっていたのかも知れない。父親を倒さなければ自分自身の存立・自由が保てないと。で、父親を殺したのだろう。
昨今の犯罪には似たような事件が少なくない。短絡指向と感情の爆発。それが多くの場合、戦争や犯罪の引き金だろう。
確かにわたしたちの日常には戦争の火種は無数にあります。
けれども、少年は父親を殺すことで、果たして自分自身の存立や自由の確保ができたのだろうか？答えは問うまでもないでしょう。
戦争という無意味かつ空しい手段で紛争や問題を解決しようという悪癖を、わたしたち人類はいつになったら止められるのだろう？　　　　　

　<strong>（２００５年７月『街から』７７号・編集後記より）</strong>

＊『街から』７７号では、<strong>映画「日本国憲法」の監督・ジャン・ユンカーマンさんへのインタビュー記事「日本国憲法＜第９条＞を世界へ輸出しよう！」</strong>を掲載している。]]>
        
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    <title>ドキュメンタリー映画監督/佐藤真さんの死</title>
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    <published>2008-05-10T02:48:47Z</published>
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    <summary>ドキュメンタリー映画監督/佐藤真さんの死　 （文・本間健彦） ☆ドキュメンタリー...</summary>
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        <![CDATA[<strong>ドキュメンタリー映画監督/佐藤真さんの死　 （文・本間健彦）</strong>

☆ドキュメンタリー映画監督の佐藤真さんが、去る９月４日亡くなった。重い鬱病を発症して病院で加療中だったが、病室から抜け出し投身自殺を図ったのだという。享年４９。１５年前、『街から』創刊号に神田真理子さんが「＜川の民＞からの贈り物」と題したエッセイで、佐藤真監督のデビュー作品『阿賀に生きる』を紹介してくれたのが、佐藤さんの存在を知った最初だった。当時は北区に編集室があり、佐藤さんもその頃は北区に住んでいたので、時々お会いする機会があった。いつも優しい微笑を絶やさない人だったなあ、という印象がある。優しい微笑と優しい眼差しは、彼のドキュメンタリー映画を制作する基本的な視点でもあった。絵を描く障害を持った子供たちや大人たちをユーモラスに映像化した『まひるのほし』、難病を抱え３６歳の若さで亡くなった写真家・牛腸茂雄の人物写真・風景写真を淡々と追うことで、夭折した若い写真家の人生を見事にクローズ・アップした『ＳＥＬＦ　ＡＮＤ ＯＴＨＥＲＳ』、毎日の食事の残飯や魚の骨などを用いて無心に泥絵的なアートに取り組む障害を持った娘とその母親の日常を描いた『花子』など、佐藤監督の作品は、第一作の『阿賀に生きる』から一貫して優しい眼差しで、世の中の主流から取り残された人間を描いてきた。そういう手法で佐藤監督は、ドキュメンタリー映画の新しい地平を切り拓いてきたのである。けれども、生身の佐藤さんが、優しい微笑と優しい眼差しの内に抱えていた深い闇と怒りについても思いを致さないわけにはいかない。１０年前、『街から』（第２６号）に掲載した佐藤真監督のインタビュー記事の一節を紹介して、佐藤さんを偲び、御冥福を祈りたいと思う。

<strong>（２００７年１０月『街から』８９号）</strong>

<strong>＊佐藤真インタビュー記事の一節</strong>
佐藤　僕らの世代の東京っ子というのは高度成長の真っ只中に育ったせいか、いつも街が建設中だった、という感じをずっともってきた。そういうと何か希望のもてる時代に生きてきたみたいだけど、実際はしみったれた団地の片隅で少年時代を含めてずっと過してきた…（笑）いまおもえば、いつも建設中だった街というのは、いわば“マチ壊し”をしてたってことで、つまり“マチ殺し”だったんですね。
――　マチ壊し的な行為は、大都市だけでなく、水俣や、「阿賀に生きる」の舞台となった山村など地方の町や村にまで及んでいますね。
佐藤　そうですね。都市化社会の地方への波及により、地方が地方として成り立たなくなってきている。それも大問題です。
――　でも、「阿賀に生きる」の主人公たちのように、都市的なものに収奪され、傷つきながらも、まるで何事もなかったみたいに、自然のなかで悠々と生きている老人たちの姿はとても感動的でしたね。
佐藤　壊された街や村であっても、人はけなげに生きていくしかないんじゃないですか。
――　ならば、東京にも希望がもてますか？
佐藤　たぶん希望はもてないんじゃないかな。すごく雑駁な予測ですが、あと１０年もたつと、東京は、文化だけじゃなく、政治や経済の分野でも、アジアのなかでの地位が落ち込んでいく、と僕は見ているんですね。

<strong>（1996年12月『街から』２６号：　インタビュー　佐藤真「東京私観」より）</strong>






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    <title>須賀敦子さんの,イタリア版「傘がない」　</title>
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    <published>2008-05-09T14:01:44Z</published>
    <updated>2008-05-10T05:31:54Z</updated>
    
    <summary>須賀敦子さんの,イタリア版「傘がない」 ☆須賀敦子さんの「雨のなかを走る男たち」...</summary>
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        <![CDATA[<strong>須賀敦子さんの,イタリア版「傘がない」</strong>

☆須賀敦子さんの「雨のなかを走る男たち」（『トリエステの坂道』所収‥新潮文庫）というエッセイに、こんな一文がある。
「イタリアで暮らすようになって、ひとつ、びっくりしたことがあった。学生をふくめて、生活がぎりぎりという階級の男たちが傘をもっていないのだ。（中略）　イタリアでもすくなくとも二十年ほどまえまで、傘は一種の贅沢品だったのではなかったか。だいいち、傘屋というのが街にない。どこで売っているのだろう。そんなわけで、にわか雨にあったとき、上着の前を手で閉めて走る人種と、そうでない人種にわかれる。」
須賀さんのこの本が刊行されたのは１９９５年だから、その２０年前というと７０年代中頃までの話ということになるが、今はどうなのか？現イタリア在住の神田真理子さんに尋ねてみようと思っているうちに締め切りがきてしまった。
☆ところで、前記のエッセイには、著者がイタリア人の夫と結婚してまもないころ夕方にわか雨が降ったので市電の停留所まで傘をもって迎えに行くと、電車から降りて来た夫は、視線が合った筈なのに知らん顔をして通り過ぎ、雨のなかを両手できっちり背広の前を閉めて走っていった、というエピソードが綴られている。そして彼女の夫は書店に勤める優れた知識人であったけれど、下級鉄道員の家庭に育ったという出自であったということも。
☆わたしたちの国では、２０年前から誰もが傘を持っている。なのに格差は広がるばかり。私事ですが、父の日に娘から英国紳士が持つような傘をプレゼントされた。でも失くしそうなのでまだ使っていない。さて、この89号が出る頃は、参院選も終り、梅雨も明けているのでしょうが…。　
　　　　　　　　
<strong>(２００７年８月『街から』８９号)</strong>

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    <title>高田豊と石川三四郎</title>
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    <published>2008-05-09T09:48:15Z</published>
    <updated>2008-05-09T09:50:58Z</updated>
    
    <summary>高田豊と石川三四郎　本間健彦 ★高田豊が若い頃、フランス語の個人教授を受けた石川...</summary>
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        高田豊と石川三四郎　本間健彦

★高田豊が若い頃、フランス語の個人教授を受けた石川三四郎は「私が初めて自然と言ふものに憧憬を持ちはじめたのは、監獄の一室に閉じ込められた時のことである」という文章を書いている。それまでは自然というものに対して親しみを感じ得なかったのだが、「獄の一室にあって以来は庭の片隅のすみれにも愛恋を感じ、桐にも花のあったことを知り、其の美しい強い香にも親しみを感じたやうな理由で、自然と言ふものに深い感慨を感ずるようになったのである。」と。そうして石川三四郎は出獄すると戦前の社会主義者やアナーキストとしては珍しい＜半農生活者＞を志す。そんな石川の思想と生き方をかつて転向と批判した人もあったようだけれど、それは貧しい思想で、その答えはすでにでている。
★小生は幸にも獄中体験はないけれど、最近は目白の編集室の狭いベランダに置いた幾鉢かの草木に毎朝水差しするのが日課となつた。水をやると草木の歓ぶ表情が伝わってきてこちらの気持ちも嬉しくなるからだ。単に植木いじりするじいさんになっただけのことなのかも知れないが、＜シャバという獄＞からそろそろ出獄するトシになりつつあるのかな、と思ったりもする。
★わたしたち現代人は都市と産業社会の中で生きるしか術を知らない者たちが大半を占めているといっていい。格差社会の歪みは、都市と産業社会の歪みの露呈に過ぎない。烏籠で育てられた小鳥は籠から出ても自然の中で生きられないという。富国強兵を目指した日本の近代に淪落の青春期を過ごした高田豊の「五月の雨晴れ夕さびし…」と記した小詩の心境がむしろ懐かしいのはなぜだろう？　
（２００７年６月『街から』８８号）

        
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