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高田渡の主治医・フォーク歌手藤村直樹さん追悼

106号 シティライツ・ノート

 高田渡の主治医・フォーク歌手藤村直樹さん追悼
「君こそは友」という仲ではなかったけれど……。 本間健彦

 京都在住の医師、フォーク・シンガーでもあった藤村直樹さんが去る四月二十七日亡くなった。六十二歳だった。藤村さんは、フォーク歌手の故高田渡さんの盟友のひとりであり、渡さんの主治医としても知られていた。私が藤村さんと知り合ったのは三年前、本誌に連載した「高田渡紀行」京都篇取材の時だった。この時が初対面だったのだが、私は藤村さんのマンションのゲストルームに二日間居候させてもらい、たいへんお世話になった。藤村さんが肝臓がんという厄介な病を抱えていることはその時に本人から聞いた。それなのに彼はワインを水のように呑んでいた。三条の鰻屋で昼食を一緒にした時、「あっ忘れてた。ちょっと失礼」と藤村さんは言って腹を出しインシュリン注射を打ち、終わると何事もなかったように酒を呑んでいた。
 昨年四月、藤村さんは「高田渡誕生会60」に出演するために上京し、渡さんのレクイエムとして作ったという新曲『君こそは友』を歌った。そして打上げの飲み会終了後、藤村さんは同伴した奥さんと小宅に寄ってくれ、泊まってもらうはずだったのに、結局夜明けまで飲んで話しこんでしまった。
 藤村さんは、時折、思い出したように携帯電話をかけてきたが、飲み屋からでもかけているのか大抵酔っぱらった口調だった。そのたびに私は、「少し酒は慎んだほうがいいんじゃないですか」と、釈迦に説法するような御託を並べたりしたが、「大丈夫です。ぼくは勤務中は呑んでいませんから……」と禅問答みたいなジョークを返された。
 藤村さんは、高田渡への追悼文のなかに「ぼくは身体については渡の主治医だったが、心については渡がぼくの主治医だったと思う。」「たがいに主治医として、患者として、二〇年近くを付き合うことになってしまった」と記している。この二人は、共に音楽をこよなく愛し、多くの仲間たちから愛されていたけれど、余人には窺い知ることのできない大きな心の憂さと闇を抱えていたのだろう。
 藤村さんは、『街から』九八号(二〇〇九年二月)に「老人は国会突入を目指す」と題したエッセイを寄稿している。この一文は前年に出した同名のCDについて藤村さん自身が記したライナーノーツだった。この歌には、医療や介護の荒廃に怒りを燃やした老人たちが〈よたよた よぼよぼ こけつ まろびつ ぜいぜいと 這いずりながら 政府を倒すために 国会突入を目指す〉といった漫画チックな老人蜂起の姿がうたわれている。その昔のプロテストソングという感じの歌ではない。むしろブルースだ!飛礫(つぶて)を投げつけるような過激な歌詞がぶつけられているけれども、現実はそんな歌の告発なんか遥かに追い抜く勢いで悪化しているのですよ!というのがこの歌にこめた藤村さんのメッセージだった。
 今年の三月二十日と二十一日の両日、京都のライブハウス捨(じっ)得(とく)で藤村直樹さんの「中休みライブ」と称したコンサートが開催された。案内状や本人の電話での説明では、しばらくの間音楽活動を中断し、医師に専念したいので……という趣旨で企画されたコンサートのようだったが、じつは私は、「お別れの会」に参列する覚悟でそのコンサートに馳せ参じた。高石友也・小室等・中川五郎・古川豪・ひがしのひとし・いとうたかお・・・など藤村さんの親しい歌仲間がおおぜい参加しており、二日間にわたる長丁場のなかなかごきげんなライブだったのだが、私は心から愉しめなかった。主役の藤村さんのあまりに憔悴した姿を見るのは辛かったからだ。予期していたとおり、それは藤村直樹さん自身が最期の渾身の力を振り搾ってプロデュースした「お別れの会」のように思えてならなかったからで、実際にこれが藤村さんのラストコンサートとなってしまったのだった。
 思えば、私は藤村さんと、そのラストコンサートの時に短い時間会ったのを含めて僅かに三度しか会っていなかった。とても「君こそは友」という仲ではなかったのだ。そうではあるのだけれど、藤村直樹さんのような人物と出会えたことをとても嬉しく思っている。「お疲れ様!」と声がかけられないのが何とも寂しい。 (『街から』106号 2010年6月~7月号)

日時: 2010年06月22日 14:56