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フォークソングの吟遊詩人・高田渡の勇み足

「フォークソングの吟遊詩人・高田渡の勇み足」 文・本間健彦
高田渡と父・豊――この父子を主人公にした本が出版されたばかりの、こんな時期に、こんな記事を書くのは著者として心苦しいのだけれど、物書きの端くれを自認している者としてはやっぱり見て見ぬふりはできないし、書かなければならないという業を背負っているのだろう。で、その顛末を記すことにした。
本誌で連載の時にお読みになっている方はご記憶かとおもうのだが、私は、この高田渡父子の物語の最終章で高田渡の持ち歌の一つである「漣」と題した歌詞を紹介している。この歌は、一人息子漣さんが幼少のころの、父と子の微笑ましい交流シーンを唄ったもの――いや朗読したもので、私は詩としてもとても好きだったからだ。さらに付け加えると、この歌には、いかにもタカダワタル的な父と子の情愛の姿がうかがえ、高田渡と父・豊の、父子の物語をしめくくるうえでまさにうってつけのエンディング・ソングだとおもったからなのである。
「漣」は、長い間、高田渡の作詞の歌として知られてきた。この歌に原詩作者からクレームがついているという情報を耳にしたのは、高田渡が他界して二年後に、私が本誌に「高田渡紀行」の連載を始めてしばらくしてからのことだった。だが、その時点では、原作の詩人名も原作詩に関しても情報としてマスコミ等に流されていたわけではなく、事実確認をする手立てもなかったので、ゴシップ情報として聞き流した。
だが昨年末、この単行本を上梓する際、中川五郎さんにライナーノーツを依頼し、ゲラを読んでもらったところ、「あの歌は、渡さんの作詞ではなく、高木護さんという詩人の詩なので、そう明記しておいたほうがいいですよ」と忠告を受け、とりあえず最終稿で「この歌詞は詩人・高木護の詩をアレンジしたものだという。」と註のような一文を付して下版した。そのようにしか書けなかったのは、その時はまだ原作者の存在も問題の原詩も確認できなかったからだった。
しかし本が出版されてから、そのことが次第にひどく気になり始め、私は図書館で高木さんの著作を数冊借りて読み、月並みの言葉で恥じ入るが、目からウロコが落ちた。高木護の詩やエッセイは、いずれも高田渡好みの「生活の柄」で紡がれた燻し銀のような作品だったからである。そして私は、詩壇ではマイナーな存在らしいこの詩人の詩の素晴らしさに逸早く気づいてその詩を唄っている高田渡の感性と慧眼に、改めて感心したのだった。
その高木護さんに、先日やっとお会いすることができた。もしかしたらすでに物故者なのかな? とほぼあきらめていたので夢のようだった。八〇歳代の高齢とお聞きしたが、とてもお元気そうだった。この時に私は初めて高木さんから問題の経緯をうかがうことができ、原詩を見せていただいた。残念ながら紙数がないので、以下に要点だけを記す。
肝心の原詩は、「秋」と題す、つぎのよう詩だった。〈子供とぼくはいる/ふたりでいる/草の上に坐っている/空を見上げている/――見えるものは、みんな他人のものだよ/――うん/親のぼくの頭も弱いが/どうやら/子供の頭もよわいようである/――見えないものがきっとぼくらのものだよ/――うん/――はらが減ったか/――うん、へった〉
高田渡の「漣」の歌詞を並べて記せば一目瞭然なのだが、詞の変えられている箇所は上記原詩のゴシックの部分で、〈漣〉〈野原〉〈息子の漣も似ているらしい〉となっている。私は「アレンジした」と記したが、これはアレンジというものではない。
高田渡は、高木護の詩を四曲唄っている。「夜の灯」(アルバム『石』所収:一九七三年)、「雨の日」「漣」(『フイッシイン・オン・サンデー』所収:一九七六年)、「相子」(『渡』所収:一九九三年)。このうち「漣」だけが、――作詞:高田渡――となっている。ついで、アルバムではなく、高田渡が逝去して二年後に出版された追悼ムック本『高田渡読本』(音楽出版社刊)の中の「高田渡の詩」と題した欄に、この「漣」が掲載されている。
高木護さんは七〇年代初頭、「高木さんの詩を唄わせてほしい」という依頼を受け、高田渡と初めて会った。まだ息子の漣さんが赤ん坊の頃だったという。吉祥寺の「いせや」でも何度か一緒に飲んだ。そんな仲だったけれど、アルバムも贈って来ないので、原詩の「秋」が「漣」と名が変えられ、作詞:高田渡になっていることにも気づかなかった。高木さんが知人からの通報で、その事実を知ったのは『高田渡読本』に原詩が「漣」という題で掲載された時だった。それで代理人が高田渡の事務所に抗議の連絡をしたが、埒があかず、うやむやになってしまったという。
高田渡は、なぜ「漣」という曲に限って原詩の作者名を明記せずに、自作の詞としてしまったのか? すでに故人となっている高田渡にその理由を質すすべはない。憶測の解釈をすれば、この詩があまりにも自分の心情にぴったりだったために、自分の詩のように思い込んでしまったのではないか。高田渡の真骨頂は、自分が唄ってみたい優れた詩を選び抜き、その詩を〈高田渡の歌〉として見事に結晶させ数々の名曲を残してきた点にあり、そんなところにも〈フォークソングの吟遊詩人〉と称されてきた由縁もあったのだろう。しかし、この一件は明らかにレッドカードものであり、表現者として許されることでもない。高田渡は、そのうち天界で高木護さんに再会したら、この勇み足の一件に関しては詫びを入れるべきだろう。
(『街から』104号 2010年2月〜3月号)

日時: 2010年02月11日 21:44