笑いの哲人マルセ太郎追悼
笑いの哲人マルセ太郎追悼 (文・本間健彦)
語ることは再び愛すること
マルセ太郎さんは、徹頭徹尾「語る人」だった。
彼は芸人だった。芸人は語ることを仕事にしている。だから、マルセさんは語りつづけてきたわけではない。マルセ太郎さんは、舞台の上だけでなく、著書やジャーナリズムの世界でも、日常生活においても、変わることのない情熱で語りつづけてきた。
たぶんマルセ太郎さんには語りたいことがたくさんあったのだろう。こんこんと湧き出ずる源泉のように。その話には激しい怒りもいっぱいこめられていた。それは壊れた人間、壊れた社会に対する怒りであり嘆きだった。「同じ人間同士じゃないか。もっと真っ当に生きようじゃないか」マルセさんの怒りにはそんな再生への呼びかけと激励が感じられた。
絵を描くのが好きだったアメリカの作家ヘンリー・ミラーに『描くことは再び愛すること』という素敵な画文集があるけれど、わがマルセ太郎のばあいは、語ることが再び愛することであり、生きることだったのではないか。マルセ太郎さんが亡くなられた後、私は改めてそんな感慨を深めたものだった。
思えば、私がマルセ太郎さんとお会いできお話の伺えたのは、たった4回に過ぎない。しかしそのいずれの時も、私にとって忘れられないひと時となった。
3年前の98年2月、インタビュー記事の取材で狛江のご自宅に伺ったのがマルセ太郎さんとの初対面だった。その日は午後から雪になった。マルセ家の茶の間で午後一時半ころから始められたインタビューは、実はインタビューなんてものではなく、マルセ太郎さんの独演会だった。それはもうマルセさんの舞台となんら変わらなかった。インタビュアーはインタビューを忘れただひたすら話に聞き惚れていた。両120分のテープを3本用意していたが、全て録音しきってもまだ話は終わらない。時計を見ると七時近い。こちらはいつまでも話しをお聴きしていたかったけれど、その気持ちを押し込みいとまを告げた。外へ出ると雪が烈しく降っていたが、感動で火照った心身が気持ちよかった記憶が今もくっきりと蘇ってくる。
このインタビューは、『街から』誌の33号と34号に2回にわたって掲載され、多くの読者に共感を呼んだ。編集者にとっては嬉しい話だった。ところが、もっと望外の私を有頂天にさせることが起きた。ご当人のマルセ太郎さんから次のようなお葉書をいただいたからだ。
《前略 『街から』を送っていただきました。実にうまくまとめてあり、うれしく思っています。これまで私のところに取材にいらした方のものでは、あなたが一番よく書いてくれています。おつかれさまでした。》
仮にお世辞だったにせよ、あのマルセ太郎さんからこんなお褒めの言葉を貰ったのだ。最高だった。しかし、後日冷静になったとき、あれは額面通りに受け取るべきものではないのだと思い至り有頂天になった自分を恥じた。芸人マルセ太郎は、作家の色川武大と永六輔に発見・発掘され芸人として復活したという伝説の持ち主だが、色川さんについて「あの人は元来陽の当たらない人が好きなんですよ」とインタビューのなかで語っている。けれどマルセさん自身もそういう方で、話や自作の芝居や著書でももっぱら陽の当たらない人に光を当てている。つまり、私のインタビュー記事などの評価もその線から割引きすれば、マルセさん流のあたたかい励ましだったことになる。だからといって私の歓びが半減したわけではなく、その葉書は私の唯一の勲章として大事に机の引き出しにしまわれているのだ。
昨年8月、私は2年ぶりにマルセさん宅を訪ねた。『街から』の創刊満八周年、通巻50号を記念してインタビュー集『人間屋の話』を街から舎で発刊することになり、その序文をマルセさんにお願いするためだった。真夏の暑い盛りだった。2年前に伺っているので道はわかりますからとお断りしたのだが、マルセさんは自転車で駅まで迎えに出てくれた。自宅に着いてからの話のなかで2日後に10回目の肝臓ガン手術で入院するのだと聞き重ねて恐縮した。そういう状況のなかであの本の序文は書いていただいたのだった。
その時のことなのだが、家に着くと「暑いでしょう。一風呂浴びませんか?」とマルセさんにすすめられ、私はびっくりした。むろん遠慮したが、亡くなられた後に愛娘の梨花さんにお聞きした話によれば、どうやらそれはマルセさんの奇矯のひとつらしく、梨花さんの友達が遊びに来て泊まったりしたときも、「朝飯前に一風呂浴びませんか?」とすすめて女友達を困惑させていたという。梨花さんの補足説明だと、マルセ家の風呂は別に檜風呂とかではなく、ごくありきたりの家庭風呂なのだが、マルセさんは自慢にしていたようで、休みの日にはよく風呂掃除に励みピカピカに磨きたてていたとか。風呂の話で脱線したが、この時も肝心の打ち合わせなどそっちのけで、マルセさんの独演会が繰り広げられ、夕刻までつづいたのだった。
3度目11月初旬、できあがった『人間屋の話』をお届けするのが目的だった。その日は次回公演の芝居の打ち合わせを劇団関係者が集ってやっていたのだが、門外漢の私もちゃっかり同席してとうとう夕飯までご馳走になった。例によってマルセさんの座興に興じてついつい長尻になってしまったのだが、実はその要因はもうひとつあった。それは茶の間と隣接する台所から奥様が次々に出してくれる韓国風の家庭料理が実に美味しかったことと、奥様の飾り気の無い大らかなオモニぶりがとても懐かしく居心地がよかったからだった。お焼香に伺った時、その奥様が大きな身体をしぼませるように何度も何度もフーッと深い溜息を漏らしていた姿が痛ましかった。
三が日明けの4日、両国のシアターカイで開催された「スクリーンのない映画館」に出かけた。この時の3日間公演初日の出し物は、『泥の川』だった。
年頭だったので、同行した安良岡編集長と「ちょっとご挨拶してこよう」と出番前の楽屋にお邪魔した。出演前なのだから、当然挨拶だけで引き上げるつもりだった。ところが、マルセさんは「さあ、どうぞ」と私たち二人を椅子にかけさせると、待ち構えていたかのように怒涛のようにしゃべり出し、いつものように話しが止まらなくなった。「出番前なのだから、早々に引き上げないと…」とこちらは気が気でないのだが、マルセさんの話しの面白さにどんどん引き込まれてゆき席が立てない。20分、あるいは十五分位だったのか。やがて係員が「そろそろ開演ですのでご用意を」と告げに来たので、マルセさんの開演前の独演会は幕となった。この公演後、マルセさんは11回目の手術を受けるために岡山の病院に入院した。月末には退院の予定とお聞きしていたが、とうとう帰らぬ人になられてしまった。結局、1月4日に楽屋へご挨拶に伺ったのが、私たちにとってはマルセ太郎さんとお会いする最期となってしまったのだった。
残念無念だが、マルセ太郎さんと出会えたことは幸運だった。束の間の交流ではあったが、生きる歓びをたくさん教えて貰ったからだ。
マルセ太郎さんは芸人だった。だが単なる芸人ではなかった。単に芸人ではなかっただけでなく、マルセさんは既成のどんな職業・肩書き・ジャンルにもあてはまらない存在だった。マルセさんは在日朝鮮人であり、帰化して日本国籍も有していたが、朝鮮人でも日本人でもない、もっと根元的な存在だった。
あえていえば、「人間マルセ太郎」を生き抜いた人物なのである。
我田引水めくが、それゆえ『人間屋の話』では、人間屋を代表してマルセ太郎さんに序文を寄せていただいたのだった。その一節を引用しておきたい。
《われわれのような権力から遠い者は、一人ひとり無力かもしれない。しかし野球にたとえれば、せめて良き外野席の客になることはできるだろう。歴史をしっかり見よう。世の中には、少数派ではあるが、常に弱者への視点を失わないで闘っている勇気の人がいる。彼らを孤独にさせてはならない。外野席からでも拍手を送ろう。『街から』のようなミニコミ誌なら、それはできるはずだ。》
この序文は、マルセ太郎さんの遺書だったのかもしれないし、マルセさん亡き後の新世紀を生きなければならない私たちへの激励だったのかもしれない。
非力な私たちには、マルセ太郎さんのように生きることは難しいけれど、せめて精神の一端くらいは受け継ぎ担っていきたいものとはおもう。
それにしてもマルセ太郎さんの「語り」に耳を傾けられないのは、何とも寂しい。
(2001年4月『街から』52号)
日時: 2008年04月29日 15:21
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