群馬県甘楽町と東京都北区のネットワーク
群馬県甘楽町と東京都北区のネットワーク (文・本間健彦)
都市と農村が健全に共存するための
ネットワーク構築の必要性
群馬県甘楽町のPR用パンフレットを見ると、「原風景――たまらなくなつかしい、日本のふるさとが、ここに・・・」という、口にするとちょっと気恥ずかしいコピーが書かれているのだが、やって来ると、なるほどそんな町だなぁ、と率直に思った。今回の取材に際し、町の関係者の方々がじつに親切に対応してくれたので、お世辞を言うわけではないのだ。確かに、この町には何か懐かしい感じを訪れる人に思いおこさせる魅力が感じられたからである。
だが、「原風景」を一見、失っていないように見える、この甘楽町にも、内情をきけば、やはり諸問題が生じているらしい。甘楽町の人口数は1万4785人、世帯数3839世帯ということだが、このうち農家の戸数は918戸で、全体の23%強に過ぎない。しかもその中で「専業農家」は245戸で、わずか26%強に過ぎず、残りは主たる本業を他に持つ(例えばサラリーマンとして勤めに出ている)、「兼業農家」だという。
この数字は一体何を物語っているのか?端的にいえば、「専業農家」では、もはや生計を立てていくのが難しくなっているか、もしくは農業に従事するより会社や工場に勤めた方が効率よく有利な収入を確保できるということだろう。つまり日本の農業は、自由化の嵐とか米の減反政策が農村に打撃を与えるはるか以前に、すなわち産業化が進み、都市化が加速する中で、どんどん追い込まれ転がるように崩壊してきたのである。それでも農家が農業を見限れなかったのは、先祖代々引き継いできた田畑といっても、農地法により自由に田畑以外の土地として処分することはできなかったからだろう。
現代社会の中で農業が生き残るためには、近代化しなければならない、と農家は尻を叩かれてきた。農業の近代化とは、農業の大規模化・高能率化を実現せよということだった。具体的には、専作化――つまり、米麦の農家は米麦の単作、野菜農家は野菜農業を専業にすることを求められた。当然のように、近代農業においては、各種の農機具が導入され、膨大な量の化学肥料と農薬が使用されてきた。
このような形で農業作物も、まるで工業製品のように生産され、市場商品のひとつに組み込まれ、農業はかろうじて生き残ってきた。連作障害や農薬の乱用により農地はどんどん疲弊してきているというが、市場経済の下で商品を生産しつづけなければ生き残れない農家にはどうすることもできない。
近年、有機農業が注目されてきた。農薬まみれで栽培され、漂白剤で洗浄した野菜を食べることの危険度に消費者が目覚め始めたからだろう。そして八百屋やスーパーやデパートの青物売り場にまで、本当にそうなのかどうか分からないが、「有機野菜」と銘打った野菜が目に付くようになってきた。だが、有機野菜は高い、と敬遠する人もまだ少なくないという。また、虫食い野菜や泥付きの野菜が消費者から敬遠されるという理由から市場で締め出されているとも聞く。
このような傾向は、一般的な農家にとっては有り難いことらしい。有機野菜作りは、効率も悪いし、リスクを伴うし、作業もしんどいからである。甘楽町の例を見ても、有機農業に本格的に取り組むために10年前に発足した甘楽町有機農業研究会(黒澤賢太郎会長)の会員はわずか25人に過ぎないことが、そのことをよく証明しているだろう。
けれども、農薬の危険性を一番よく承知している農家の人は、自分たちの食べる分は有機農法で作っているというところが多いといわれる。つまり商品として作る作物と自分たちの食用分の作物とを明確に分けているのである。そんな話を聞き、いくら都市のわたしたちが「そういう作り分けをするなんて農家の人はずるい」と非難しても仕方ない。それが現代の農業の現実なのだから。
だが甘楽町には救いがあった。町役場が積極的に有機農業に取り組む農家を支援してきたからだ。一例を挙げれば、役場の農林課の中に有機農業研究会の事務局を設置し、会員の作る有機栽培の野菜を、応募した都市部のオーナー会員(現在約200人)に定期的に販売するというシステムを作り、町おこし・村おこしの一環として位置づけ、この事業の推進に力を注いでいるからである。
一方、群馬県甘楽町と東京都北区は、1986年4月に「自然休暇村事業協定」を締結し、共同で建設した『甘楽ふるさと館』を拠点にして、都会の子どもたちが農村の暮らしを体験できる「親子ふるさと体験」やスポーツ交流など、様々な交流を毎年続けてきた。
その背景には、半世紀前の戦時中、当時の王子区立第二岩渕国民学校の5・6年生が学童疎開で甘楽町のお寺等にお世話になっていたという歴史のあった点も見逃せない。そのような縁も今日の北区と甘楽町の交流を形成する母胎になっていたからである。
戦時中及び戦後の地獄のような食糧難の時代を体験している世代は、農業がどれだけ大切なものかを身に沁みて知っているにちがいない。少量で、その上遅配ばかりしていた配給の米では餓死しかねないために都会の人びとは田舎の農家に買い出しに出かけたのだが、農家の人に「お金では売れないよ。着物とか何かモノを持って来な」とケンもホロロに追い返えされたりした体験者が少なくない。そのため焼け跡に建てたバラックのわきのわずかの空地に菜園を造り、トマトやキュウリやナスなどを植えて野菜を自給し、ニワトリを飼って、毎朝産んでくれる卵を貴重な蛋白源にしていたという時代もあったのである。
戦時中・戦後の一時期のような食料難の時代もご免だが、農薬漬けの危険な米や野菜を食べ続けなければならないという状況も何とかしなければならない。この問題を解決していくためには、都市と農村がもつと有機的に共存できるようなネットワークを構築していくことが不可欠のように思える。
(1996年6月『街から』23号)
日時: 2008年04月29日 15:08
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