黒田オサムとドンちゃん
黒田オサムとドンちゃん (文・本間健彦)
黒田オサムを大バケさせたドンちゃんの慧眼
黒田オサムの自製の略歴は痛快だ。例えば、こんな具合。《子どものころ、川に流され肉屋のヨネちゃんに助けられる。二度も空を飛ぼうとして墜落、二度とも左腕骨折。以後、左腕曲がる。》初対面のとき、「思わず吹き出しましたよ」と告げたら、「ああ、そうですか。略歴なんてみなあんなものじゃないですか?」とご本人は澄ましたもの。で、当方は向きになって「あんなもんじゃ、ないですよ。だいたいみんな偉そうなものですよ。何々大卒とか、立派な業績などが並べたててありますよ」と食い下がったのだけれど、「ああ、そうですか」で、おしまい。“空気投げ”に遭ったようなものだった。
そのくだんの略歴にもう一箇所気になるくだりがあった。《オドリの師匠・流派なし。我流のへんなオドリを、天才的舞踊思想家ドンちゃんに見出され、パフォーマーの道を歩み始める。》一箇所とは、どうやら今日のパフォーマー黒田オサムを発見・発掘したらしい天才的舞踊家ドンちゃんというところで、「ドンちゃんとはそも何者か?」という激しい好奇心を抱いてしまったからだった。黒田オサムはもしかしたら名コピーライターなのかもしれないが、《天才的舞踊思想家》という紹介の仕方がまず凄い。男なのか女なのか。舞踊思想家とはどんな存在なのか。生存者なのか物故者なのか。ただドンちゃんという名前だけがひとり歩きしているだけで、真相が皆目掴めない。そこのところがなかなか神秘的で興味をそそらせるのである。
黒田オサムの話に耳を傾けていると、冒頭の略歴の中に出てくる幼少の友、肉屋のヨネちゃんを皮切りに、小学生低学年のころ将来は絵描きになろうと決心して師事した紙芝居屋のヨッちゃんとか、はたまた山谷時代の仲間の一人で「俺は芸人なんだ!」といつも自慢していて、あるとき「明日、久しぶりに芸の仕事をするから来るか?」と誘われたので、土方仕事よりは楽だろうとついて行ったら、近郊の農家を門付けして回る乞食芸人だったカメちゃんなどなど、愛称名で登場するおかしな友人・知人が一杯いるんですよね。で、ドンちゃんもそんな一人なのかな、とおもったりもしたのだが、やはり《天才的舞踊思想家》という触れ込みは別格で好奇心はいやますのだった。
その神話の主人公ドンちゃんに、先日、私は遂に逢い見る機会を得たのだった。大袈裟なことを、などと言うなかれ。わが黒田オサムとドンちゃんとの出会いはまことにもって神話的なものだからです。そんなお話をほんのさわりですが紹介することにしよう。
1988年5月15日〜22日までの8日間、東京・西荻窪のアトリエ・ミチコで『黒田オサム・オバケ展』が開催された。黒田オサムの初の個展(しかもギャラリーが企画・主催したもの)で、いわば画家としてのデビュー展だったのだが、黒田オサムの回想のよれば「僕が毎日すいとんを作り、それをお客さんに食べていただきながら絵を見てもらうという趣向の変な個展だった」という。
この黒田オサム展を企画・主催したのがアトリエ・ミチコを主宰していたドンちゃんだった。もう少し正確にいえば、ドンちゃんとその同伴者(夫)である渡辺裕之さんのお二人で、つまりドンちゃんは女性だったわけです。
ところで、会場のアトリエ・ミチコのことなのですが、これが実は西荻の住宅街にあった老朽アパート清風荘の一室をギャラリーにしたものだった。当時ドンちゃんと渡辺裕之夫妻は、このアパートの二階に暮らしていたのだが、ギャラリーにした一階玄関脇のその部屋には前年まで一人の老人が住んでいた。ロートレックの絵に描かれているようなすごくいい顔のおじいさんだった。足が悪かったようでほとんど外出することもなくいつも部屋に引き篭もっていた。クラシック音楽が好きだったらしく、部屋の前を通るといつも静かにレコード音楽が洩れ聴こえてきた。その音楽が唯一老人の生きている証のようだった。、前年の暮れ、レコードの音が数日途切れる日が続いた。郵便箱に数日分の新聞の束が溜まったままだった。不審におもい大家さんが部屋に入ると、老人はひっそり死んでいた。身寄りがなかったのか、通夜にも葬式にも縁者らしい人は誰も駆けつけなかったという。
その部屋は老人が亡くなったあと空室だった。「あのおじいちゃんの部屋を生かしてあげたいなあ」とドンちゃんはおもった。で、その十畳ほどのアパートの一室をギャラリーにすることにした。こうして誕生したアトリエ・ミチコの柿落とし展として白羽の矢を立てたのが、黒田オサム展だった。「わたしの中でコヤナギさん(その老人の名)と黒田さんは繋がっている人なのよ」とドンちゃんは語っている。二人の共通項は何だったのか。そこまでの説明はなかったが、その企てには鎮魂と蘇生へのおもいがこめられていたのだろう。
けれども、初の黒田オサム展には予想通りあまり客は集まらなかった。住宅街のアパ−トの一室に発足したばかりの知名度の低いギャラリーでの無名画家の個展では、それも致し方ないことだったのかもしれない。「最終日は黒田さん踊ってよ」とドンちゃんは提案した。打ち上げを兼ね楽日を盛り上げたかったのだろう。「オドリ?僕は踊れないですよ」黒田オサムは尻込みした。「黒田さんはただ立っているだけで踊りになっている人だから、大丈夫踊れるよ」ドンちゃんは説得した。
黒田オサムはその頃はまだパフォーマーではなかった。だがこの男には、戦後すぐに画家をめざして上京したものの山谷などで都市底辺の暮らしを長い間余儀なく続けてきたにもかかわらず生活に屈しないアプレゲールの心意気とアバンギャルド精神が沸々と持続されてきたのだった。それは例えば、「六〇年代のはじめ頃でしたかね、ヨーゼフ・ボイスがコヨーテの小屋に入って何時間かすごしたパフォーマンスが話題になりましたけど。僕はそれより前に上野公園で掃除の作業をしていたとき、フェンスを乗り越えてラクダの背中に乗っかちゃったことがありますよ」といったエピソードや、前述の山谷の仲間カメちゃんについて門付けをやってたときには「カメちゃんが俺は芸人なんだ!と威張ってる割りに芸がないので、仕方なく体をゆすって変なオドリを踊りながら『地蔵和讃』なんかを出鱈目に詠ってましたね」という回想などに読み取ることができた。つまり黒田オサムには生活の中で身体に刻み込まれてきた無念や叫びが深く記憶されていたのである。黒田が自分より遥かに年少ながら《天才的舞踊思想家》と尊敬するドンちゃんの慧眼は、黒田オサムが踊れる人だということを見抜いていたのだろう。
黒田オサム・オバケ展の最終日には、どこで聞きつけたのか大勢の客が集まり、一室を車座で埋めつくした。黒田は「俺は死んでも死なないぞ、俺はオバケダ!」といった内容の話をひょうひょうと物語り、門付けしたときにやっていた「これはこの世のことならず、賽の河原の物語…」といった念仏を詠いながらの奇妙なオドリを踊り、あさり売りの行商をしていたときの声色を披露した。また、日本初の革命歌を朗々と歌い、「クロポトキンの金玉!」といった奇妙なシュプレヒコールを発して、若い客たちを煙に巻きやんやの喝采を浴びた。
これが黒田オサムの伝説的なパフォーマーとしてのデビューだった。このとき黒田オサム57歳。ちなみに黒田がパフォーマンスの公演で使っているカスタネットは、ドンちゃんがスペインで踊りの修業をしていた時代に使用していたもので、彼女からプレゼントされたものだという。
そんなわけでドンちゃんはパフォーマー黒田オサムのいわば生みの親なのだが、彼女はあの破廉恥な考古学者みたいに僭越ではなかった。「それは違うのよ。わたしは肉屋のヨネちゃんや紙芝居屋のヨッちゃんと同じなの。黒田さんって人はあんまりしゃべらないけど、すごく面白い話を一杯もってる人なのよ。でも、人の話に割り込んで横取りしたりするような性格じゃないから、せっかくいいものをもっているのにそれまでしゃべるチャンスがなかったのよ。この人にもっとしゃべらせて!って気持ちが、わたしは強かったのよね」
パフォーマー黒田オサムの側面ばかり強調してしまったようだが、本来この会は初の黒田オサム展だったのである。しかもギャラリーのお披露目の企画展に黒田オサムは抜擢されているのだ。つまりドンちゃんはまず画家黒田オサムの発見・発掘者でもあるのだ。では、ドンちゃんは黒田オサムの絵のどんなところが気にいったのだろうか。
「たしか黒田さんの絵をはじめて見たのはFIUでだったとおもうんだけど、この人の絵はどうして線がこんなにシャープなんだろう!とすごく好きになってしまったのよ。とても単純な線なんだけど、意外性があるし、とても神秘的なのよ。それで好きになっちゃった」
このドンちゃんの讃辞に対し、黒田オサムはこんな解説をするのだった。
「あの線はね、僕が筆耕で生活していた頃の後遺症なんですよ。ほら、ガリを切るとき定規を使ってガリガリって線を引くじゃないですか。あれです。そうしたら絵を描くときにもモノサシを使わないと描けなくなっちゃって。だけどね、やってるうちにあの線がだんだん面白くなってきて。線って深いんですよね。線ってのは、つまり境界線ですよね。生と死、ウソとホント、あの世とこの世、過去と未来、などの境。だけど、両者は決して分かれて存在してるわけじゃない。ウソってのはホントがあってウソがあるわけですし、ホントってのはウソがあってホントがあるわけですからね。つまりお互いに持ちつ持たれつの関係なんですね。上手とか下手とかいうことも同じで、ですからうまい人はへたな人に感謝しなくちゃいけない。僕はそういうお互い持ちつ持たれつの、線があって線がないような混沌とした状態に興味があるんですよ。それはアナキーな精神につながっているとおもいますしね」
黒田オサムは普段はいたって寡黙な人なのだが、一度堰を切ると次から次に話が飛び出してきて止まらなくなる。ドンちゃんは楽しそうに聞き役に回っていたが、話が一段落すると、庭に出て紫蘇を摘み、それを天麩羅に揚げ、美味しい蕎麦をご馳走してくれた。団欒の中で彼女はこんな黒田評も語っていた。「黒田さんとすごしていて何がいいかというと、楽だからいいの、楽な人ってあんまりいないですからね。それとわたしは長老のような人物を探していたのですが、黒田さんは知り合った頃からすでに長老って存在でしたよね。だから憧れてきたのよ」
ドンちゃんは現在、逗子の外れの海を眼下に見下ろす丘の上にある米軍ハウス風の家に夫妻で暮らしている。身体を壊し今は快復したが踊りは休止状態だという。雑草の生い茂る庭の真ん中に姿のいい棕櫚の木がある。初夏の海は小雨でボーッと霞んでいた。
帰路、黒田オサムと小生は渡辺裕之さんの運転する車で逗子駅まで送ってもらったのだが。その途中で「あっ、ここが日蔭茶屋だよ」とドンちゃんが教えてくれると、「えっ、そうなんですか!?」と黒田オサムは日頃の柔和な表情を一瞬固くして振り返った。それはアナーキストの眼だった。
(2001年6月『黒田オサム古希を祝う会』パンフ)
日時: 2008年04月29日 14:52
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