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飛鳥山公園と赤羽自然観察公園

飛鳥山公園と赤羽自然観察公園 (文・本間健彦)


「公園」とは?序説 

 かつて日本には、「庭園」はあったが、「公園」は存在しなかった。いや、今なお・・・と言うべきか。
 では、公園と庭園は、どこがどう違うのだろうか。手元の「大辞林」を引くと、それぞれ次ぎのように定義されている。
 [公園]@主に市街地またはその周辺に設けられ、市民が休息したり散歩したりできる公共の庭園。A観光や自然保護のために指定されている地域。国立公園や県立公園など。
 [庭園]観賞やレクレーションのために樹木を植えたり、噴水・花壇を造ったり、東屋などを設けたりして人工的に整えた場所。庭。
 -―-―つまり、公園と庭園には、前者は「市民が休息したり散歩したりできる公共の庭園」であるのに対し、庭園は「観賞のために人工的に整えられた庭」という概念の明確な違いがあるのだ。ところが日本では長い間、公園と庭園が一緒くたに同一視されてきたきらいがあるように思える。もちろん、これにはいくつかの要因や事情があった。
 第一は日本の公園という概念が、市民という概念同様、文明開化の明治期に欧米から導入されたものであり、他の外来文化の例と同じように、ここでも本質について深く学ぶことをせずに、ただ単に形だけを模倣している点が挙げられる。別の角度から言えば、民主主義も、都市社会も未成熟だった当時の日本では、公園と庭園の概念の違いも機能の違いも区別がつかなかったのであろう。
 第二は冒頭でふれたように、日本にはそれまで庭園はあったけれども、公園は存在しなかった点である。
 代表的な日本庭園を思い出していただきたい。例えば、京都の金閣寺や銀閣寺の庭、あるいは金沢の兼六園や岡山の後楽園、わたしたちの身近な公園で言えば駒込の六義園などは、いずれも将軍の別荘だったり、有力な大名の私邸だった所である。つまり庭園というものは、かつての特権階級のひとびとの庭であり、庶民にとって高嶺の花だったものなのだ。
 第三は庭園というものが、この点は欧米の庭園もほぼ同様なのだが、観賞用に造られた庭だという点であろう。ご存知の通り日本庭園のパターンは、植木や築山や石や滝や池を箱庭的に配置し、日本的な自然美と風流を味わう目的で造られたものであり、私有地の観賞用の庭であったという出自を有する。
 以上のような背景と経緯のもとに近代を迎えてから造られてきた日本の代表的な公園には、かつての大名の庭園だった所を公園に転用したものが少なくなかった。そんなところに日本の場合、公園と庭園の概念がごちゃごちゃに同一視されてきた要因があったように思えるのだ。
 そういう観点から、かつて日本には庭園はあったけれども、公園は存在しなかった、と述べたつもりなのだが、じつは日本にも江戸時代中期の頃に公園的な発想で造られた都市庶民の憩いの場もあったといわれる。それがわたしたちには馴染みの深い飛鳥山である。
 18世紀の中頃、現在の東京都北区王子に所在する飛鳥山周辺を、江戸庶民の行楽地として開発したのは八代将軍の徳川吉宗(1684−1751)だった。紀州出身の吉宗は、飛鳥山の隣接地であった王子神社(通称、王子権現)が紀州の熊野権現の流れをくむ神社だったことから、ことのほかこの開発に力を注いだと伝えられているが、理由は他にもあったようだ。それは一言で言えば都市問題だった。徳川幕府の所在地で、いわば日本の首都だった江戸は、当時すでに100万人を超す人口を有する世界有数の大都市だったのだが、江戸市街の構成を見ると、大名や旗本など武士階級の人びとの屋敷地が全体の6割を占め、寺社地が2割ほどあり、残りの2割の土地に人口でほぼ半数の50万人の町民がひしめいて住んでいたといわれる。つまり町民と呼ばれていた当時の江戸庶民はきわめて狭い指定された区域に落語で有名な八さんやクマさんが住んでいたような長屋暮らしをしていたのである。
 庶民感覚を持った将軍だったといわれる吉宗は、そのような劣悪な環境に押しひしがれていた町民の生活を憂慮し、なにか風穴を開けなければ・・・と敏感に察していたのだろう。それが飛鳥山を中心とした音無川(石神井川)沿岸を行楽地として開発するように提案した動機だったのではなかろうか。
 こうして飛鳥山には沢山の桜の木が植えられ、当時としては珍しい公園的な庭園が誕生している。また、高台の滝野川地区から低地の王子地区へ下る間の峡谷のような地形を流れていて、随所に滝があったという音無川沿いも、この頃紅葉の木などが植えられて整備されている。その結果、飛鳥山・音無川界隈は、江戸市中から約10キロ前後という近郊に位置していたこともあいまって、春は花見、夏は滝浴み、秋は紅葉狩りが楽しめ、川のほとりに何軒もの茶屋が立ち並んで賑わう江戸近郊随一の行楽地が形成され、広く庶民に親しまれ、広重の「名所江戸百景」にも描かれている。
 この江戸時代中期に造られた飛鳥山周辺の行楽地は、それまでの日本庭園とは異なり、初めて庶民が集い、憩える、公園の機能を備えていたわけで、江戸に滞在していた欧米人も必ず訪れ、その美しさを絶賛している記録が残されている。
 しかし、維新の明治期に入ると、この江戸近郊の名勝地は凋落の一途を辿った。その要因ははっきりしている。現在、北区と呼ばれている地区は、明治期に入ると、まず中心地の王子地区に東京で第1号の工業地帯が形成されるようになり、次いで台地の赤羽から十条、滝野川地区にかけた広大な田園地帯が軍隊の諸施設で占められるようになったからだ。このような形で現在の北区全域はいち早く近代化を成し遂げたわけだが、その代償として美しい行楽地だった自然を失い、田園を捨てたのである。
 最近北区は、区のシンボルと誇る飛鳥山公園の大リニューアルを図り、新装成った公園がお目見得した。立派な石を積み上げ、水辺をもうけ、人工の滝を落とし、なぜか能舞台らしき施設まで登場した。この新飛鳥山公園を皆さんは堪能されているのかどうか。たぶん庭園が大好きで、公園と庭園を同じものとしてとらえている方は新飛鳥山公園に対して三ツ星の評価をするのかも知れない。けれども、都市化社会の諸問題に遭遇して酸欠症状や飢餓状態に陥っている市民の中には、単に箱庭的な美しい庭園より、何もこれといった施設のない、芝生の広場と森だけで構成されているような、もっとドーンと広々とした公園を待望している人びとも少なくないのではないか。
 ちなみに都市公園の広さについて、東京とニューヨークのケースを見ておくと、東京が都民1人当たり1平方メートル強(北区の場合、区民1人当たり2,31平方メートル)といったところなのに対し、ニューヨークは19平方メートルと約20倍近い広さを誇っている。また両都市の中心街にある代表的な公園の広さを見ると、マンハッタンのど真中に位置する有名なセントラルパークは日比谷公園のおよそ20倍の340平方メートルの広大な面積といわれる。
 環境事業計画家、吉村元男氏は、「日本の公園にはスポーツ施設や遊器具やお花見の場とかいったように、人をできるだけ集めようとした考え方で設計されたものが多い。しかし、公園の本質は、自然の豊かさや静けさが最も必要とされる都市の空間である。」と、『都市は野生でよみがえる』という著書の中で述べているが、全く同感である。
 私は幼時の頃、上野駅に近い下町に育ったので、今でも上野公園を歩くのが好きなのだが、それにしても動物園があり、美術館がいくつもあり、博物館があり、大学があり、寺があり、レストランがある・・・といった具合に諸施設で埋め尽くされた公園にはうっとおしさを感じないわけにはいかない。いったい「公園」はどこにあるのだろうか?と、失望さえする。
 公園の造られ方には、日頃不満が大きかったので、この特集の取材で「赤羽自然観察公園」の計画地を見学させてもらい、計画の概要を聞かされたときは久しぶりの朗報と未来に少し希望が抱けた。明治時代に富国強兵という掛け声に乗って真っ先に軍隊の諸施設が造られ、戦後は最近まで自衛隊の駐屯地だった所が、国から北区に払い下げられ、自然観察公園として再生するというのだから何とも喜ばしい話だ。
 広大な敷地をぼんやり眺めていると、「夏草や兵どもの夢の跡」という句がふと浮かび、子どもの頃焼け跡の原っぱで遊び回っていたことをなぜか懐かしく想いだした。「このままでもいいじゃないかしら・・・」と、同行したスタッフのひとりHさんがつぶやく。う〜ん、そんな公園もあったらいいなァ・・・。

                                        (1996年4月『街から』22号)
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日時: 2008年04月26日 15:14

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