ホーム > 編集室から > シティーライツ・ノート > 高田豊と石川三四郎

フォークソングの吟遊詩人・高田渡 

フォークソングの吟遊詩人・高田渡 (文・本間健彦)

タカダワタル的ライフスタイル再考

 世代論は好きではないけど、日本的社会に長年棲んでいると、世代というムラ社会も存在して、ある世代に属していない他の世代が村八分的な心理に追いやられる(もしかしたら自分で追いこんでいるだけなのかも知れないが)といったシーンも少なくない。たとえば、私は、フォークシンガー高田渡のファンではない。もっと正確にいえば、高田渡のレコードを熱心に聴きこんだことも、ライブを聴きに行ったこともない。これは単に高田渡の歌をよく聴いた世代に属していなかったという理由に過ぎないのだけれど、なんとなく日本的な文化現象に自分もはまっていただけなのかと、反省したりして寂しくなった。いい音楽に、世代とか、ジャンルとか、新しいとか古いとかなんて関係ないからだ。
 もちろん、高田渡の名前は知っていた。60年代末から70年代初期の時代は、私にとって特別の想いいれがあったから、あの時代の空気と気分を一杯に詰め込んでいた高田渡の唄は別に耳を傾けなくても聴こえてきた。1968年、19歳のとき、高田渡は『自衛隊に入ろう』という唄でデビューした。こんな詞の曲である。
自衛隊に入りたい人はいませんか/ひとはたあげたい人はいませんか/自衛隊じゃ人材をもとめてます/自衛隊に入ろう 入ろう 入ろう/自衛隊に入ればこの世は天国/男の中の男はみんな/自衛隊に入って花と散る
日本の平和を守るためにゃ/鉄砲やロケットがいりますよ/アメリカさんにも手伝ってもらい/悪いソ連や中国をやっつけましょう 
この曲はいろいろ物議をかもし話題を呼んだ。防衛庁から電話がかかってきて「ぜひうちのPRソングに使わせてくれないか」と申し出があったという。ところが、すぐあとに断りの電話も入った。ある組合の会合に呼ばれて、この唄をうたったら、「なんでこんな自衛隊讃歌を歌うんだ」と野次を浴びた。放送禁止曲にもなった。
 ちょっと時代背景をふりかえっておきたい。ちょうどベトナム戦争の末期でアメリカではベトナム戦争反対の運動が盛んになってきていた。日本でも大学紛争がいくつもの大学で起きていた。新宿の西口広場では若者たちのフォーク集会が盛り上がり、挙句の果ては機動隊に一掃されている。だが、自衛隊の存在は影が薄かった。今のように海外派兵などできる状況ではなかった。本気で「自衛隊に入りたい」などと志願する者は、都市の青年にはほとんどいなかったのではないか。それゆえ、自衛隊が大キャンペ−ンを繰り広げていたようで、高田渡は、なんとその宣伝文句を引用して、この曲を作ったというのだ。
このころ台頭した日本のフォークソングは、プロテストソングとして脚光を浴びていたことを思い起こせば、そのジャンルの歌手のデビュー曲としては異色であり大胆不敵だった。当然の話、彼は、この曲を「反戦歌」「反軍歌」として創り、歌ったのだ。だが、この種のアイロニーは、白か黒かはっきりさせないと落ち着かない日本人には真っ当に理解する人は少ない。左右両翼から無粋な攻撃を受けやすい。でも、彼は歌いつづけた。
しかし、近年、高田渡は、このデビュー曲を、「この歌の役割は終った」と、歌わなかったという。これは正解だろう。今日のようなネオ・ナショナリズムの勃興しつつある状況では、アイロニーなど掻き消され、「自衛隊PRソング」になりかねないという不安があったからと思われる。

高田渡は、1949年1月岐阜に生まれた。4人兄弟の末っ子だった。父高田豊は出版社に勤務していて、詩人でもあったという。母親は、渡が8歳のときガンで死去。その後、父子一家は上京し、下町の深川で暮らした。上京後、父親は労務者等の肉体労働に従事するようになった。父親は、夕方、帰宅すると、近所の一杯飲み屋に出かけ酒を呑んだ。渡は父に同伴し、横で晩飯をたべた。その父親も、渡が18のときに死去。渡は、一時期、九州・佐賀の親戚に預けられ、当地で商業高校に入ったが、すぐに東京へ舞い戻った。そして新宿・若松町のぼろアパートに住み、昼間は印刷会社へ勤め、夜は定時制高校へ通った。(自伝『バーボン・ストリート・ブルース』より抜粋紹介)
前述したように、高田渡は19歳の年に、『自衛隊へ入ろう』という自作の唄でフォークシンガーとしてデビューしている。(1968年 第3回関西フォークキャンプ[京都]に出演)。年譜を見ると、それは単身上京し、自活を始めた翌年のことなのだ。このような状況の中で、あのデビュー曲が創られ歌われたことを考えると、果たしてあの唄は「反戦歌」
「反軍歌」だったのだろうかという疑念も湧く。高田渡の意図をねじまげて解釈しようとしているわけではない。彼が「反軍歌」を創ったことを疑うつもりはない。だが、そのころの高田渡の心の中に「今のおれの状況は、自衛隊にでも入らなければ道が拓けないのではないか?」という気持ちが滓のように澱んでいなかったとは言いきれまい。日本中「中産階級」ばかりになった、といわれた高度成長時代だったけれど、その網から抜け落ちた少数派におれは属している、そんな思いが当時の高田渡にはあったのではないか。『自衛隊へ入ろう』という唄にこめられたアイロニーには、そんな複雑な思いや反撥もあったのではないか。そういう連想をしたのは、後年、高田渡が、連続射殺事件で死刑の執行を受けた永山則夫の詩を2篇(「手紙を書こう」「ミミズのうた」)を持ち歌にしていることに気づいたからだった。その一篇、「ミミズのうた」には、<目ない 足ない おまえはミミズ/暗たん人生に/何の為生きるの>という詩句がみとめられる。また、「手紙を書こう」には、<書いたら少しは/望みも湧いて/明日も恐がらなくとも/良いだろうに>…そんな詩句がある。永山則夫は、他の著書同様、これらの詩も獄中で書いた。つまり、死刑囚の身になって文の才能が開花した。彼は、そのことを著書『無知の涙』で悔いているが、手遅れだった。
 高田渡が、永山則夫の詩を自分の唄に加えたのは、境涯に共感するものを感じたからであろう。ただし、高田渡は、永山則夫にはならなかった。それは、高田渡には、唄が、音楽があったからだろう。
 フォークソングは、ジャズやロック同様にアメリカからの輸入音楽である。フォークソングの一分野、プロテスト・ソングも同様だった。フォークソングとロックは、その時代の日本の若者を2分したポップ音楽だった。高田渡も、時代の子の一人としてブ−ムの輪に加わった。しかし、高田渡は、デビュー曲からすでにそうだったように、通り一遍のプロテストソングやカバーのフォークソングを歌うのではなく、初めから自分の唄を歌いつづけてきた。自作の唄だけでなく、金子光晴・木山捷平・三木卓・山之口貘・谷川俊太郎・ラングストン・ヒューズ等、国内外の詩人たちの詩に曲をつけて歌っている。さながら吟遊詩人という感じだ。
 フォーク・ブームは、とっくの昔に終焉している。当時のフォークの仲間たちの中には、その後ミュージシャンとして成功し“ビッグ”になっている者もいるが、大勢の者が姿を消している。高田渡は、“ビッグ”にもならず、消えもしなかった。そういう生き方が貫けたのは、本人が語っているように「僕は、死ぬまで歌い続けるのが歌い手だと思っている。歌わなくなったときが終わりだ。」という信念があったからだろう。
 音楽関係者の間では、80年代には「ねこのねごと」(83)というアルバムを一枚しか出さなかった高田渡に対して、「沈黙の1980年代」という評価があったらしい。それに対しご本人はこう述べている。「僕は沈黙など一度たりともしていない。だいたい十年間も沈黙していたら、食えずにとっくに死んでいるはずである。1980年代という時代は、僕がライブに専念していた時代だ。一年の半分以上は、ライブで全国各地を回っていた。距離に換算すれば、たぶん一年間で日本を二周ぐらいしていると思う。ただし、ギャラは安かったから、日本を二周しても年収は普通の月給取り以下だっただろう。この時代、ライブに明け暮れていたのは、ライブをやっているほうがおもしろかったからだ。」(『バーボン・ストリート・ブルース』より)
 高田渡の80年代は、全国津々浦々を回る、「吟遊詩人」の時代だったのだ。先年、このような高田渡のライブ行脚を描いた『タカダワタル的』というドキュメンタリー映画が製作・上映され、渡ファンを喜ばせた。この映画にちょっと面白いシーンがあった。その日のライブの場所は東京・青山なのだが…。そのときの語りのさわりを紹介しておこう。
「ええ〜、今日は、あたしには似合わない場所でやらしてもらってます。」(笑)「うちの奥さんが言うわけです。あんた、青山なんかめったに行くことないんだか行っといでと…。」(爆笑)「ええ、それでボクは三鷹の方に住んでますので、家を出るとき吉祥寺あたりでしっかりと飲み食いしてきました。こちらで飲み食いしたのでは、はっきり言いますと、当たってしまうような気がしまして…。」(爆笑)「ええ〜、少しの時間ではありますけどやらしてもらって、さっさと帰ります。青山とか赤坂とか、この辺にはろくな奴いませんから…。ほとんど普通じゃないからネ!」(大爆笑)そんな落語みたいな語りだった。このときは歌っていないが、高田渡は、「銭がなけりゃ」という唄で、<東京はいい所さ 眺めるなら申し分なし 住むなら青山に決まってるさ 銭があればネ!」とも歌っている。
 高田渡は、青山を東京の象徴としてとらえ、自らの東京観・街観で語っているのだが、これは彼の人生観にも通じているのである。

                 (2005年9月『街から』78号)

日時: 2008年04月29日 15:49

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.machikara.net/cgi/mt/mt-tb.cgi/225