ミニコミ書店の店主たち
ミニコミ書店の店主たち (文・本間健彦)
山椒は小粒でもぴりりと辛い
ミニコミ書店の本を買う愉しみ方
前号からミニコミ書店の方にブック・レビューを書いてもらうことになった。さすがに本にこだわる目利きたちの一味違う書評なので「面白い」と評判がいい。気をよくして東京でも稀少なミニコミ書店の中からもう何人かの方に原稿を依頼しようと声をかけたら、「うちはミニコミは扱っていないので…」と断わられる店もあった。「ミニコミなんて、まだ作っている人がいるの?」と、まるで真昼にさまよい出た幽霊でも見るような目付きでこちらをうかがう人もいた。要するに<今時、ミニコミもミニコミ書店もあるわけないじゃないの。時代遅れな奴だなあ!>と呆れられたのでありましょう。
たしかにミニコミは、いまや絶滅危惧種なのかもしれない。簡単にメールが飛ばせるし、ホームペ−ジだって作れる。わざわざ乏しいお小遣いを投じてフリーペーパーや小冊子を作る必要はないのだろう。時代によってメディアは変わる。それは仕方がない。問題はミニコミ精神までが失われてしまったのかという点なのである。
では、ミニコミとは、何だったのか。ミニコミ精神とは?それについてだいぶ昔に筆者の書いた文があるので、その一節をちょっと長くなるが紹介しておこう。
ミニコミについての一般的な概念は、マスメディアに対する若者たちの小さなメディアという解釈ではなかったかと思う。しかし、彼らは自分たちの小さなメディアの編集や発行のみにこだわっていたわけではなかった。むしろ彼らの何よりの関心事で重大事は、どうしたら既成の文明社会に全面的に与することのない自分の生き方を構築できるかという点にあった。そしてその第一歩を、まず自分たちの棲んでいる街や町の中で、自分たちの生活と文化を少しずつ着実に形成していこうという生き方をそのとき始めたのである。つまり、彼らにとってミニコミとは、そのような生き方の表明や確認の場であると共に、遊び心を愉しむ媒体としてとらえられていた色合いが強い。
ほんの一例をプロフイールふうに紹介しておくと――。吉祥寺には、『名前のない新聞』という週刊のフリープレスがあった。街の中でどのような生き方をすべきがベストかといったテーマに毎号取り組んでいた。同紙は、これぞカウンター・カルチャー世代のタウンジャーナリズムといえるミニコミだったと思う。下北沢では、通称マンジエロと呼ばれていた長髪の青年が出していた、『古新聞』というワラ半紙にガリ版刷りのミニコミがあった。「先週は雨の日に始まって雨の日で終わった感じですが、その間ずっといい天気だったので、ぼくは、散歩と洗濯に精を出したのです」そんな調子で自分自身や仲間たちの生活の綴られた『古新聞』を読むのはあのころの私の愉しみのひとつだった。静かな住宅街の石神井公園の町には、『蘇生』など十数種のミニコミがあって、日曜日には公園でフリーバザールやフォーク集会を開いたり、都市コミューンを創ろうという運動なども展開されていた。新宿の『模索舎』はミニコミの流通機構づくりをやっていたし、『京都フリータウン』は第一回ミニコミ会議を京都で主宰し、ミニコミの全国ネットワークづくりをめざしていた。大阪の『モリスフォーム』ではミナミの飲み屋ビルの中に編集室兼フリースペースをもうけ、集まって来る若者たちにタダでコーヒーを飲ませていた。
まあ、そんな具合の展開で、彼らにとってミニコミとは、単なる小さなメディア創りというより、自分たちの生き方や場所の解放と獲得運動だったという側面が極めて強かったことがおわかりいただけるだろう。だから、その後彼らがミニコミづくりをさっさと放棄し、そのことでマスコミなどから若者文化のアダ花といった評価がされても、私は聞き流すことができた。彼らはどこかの街や町でおそらく自分たちの生き方を始めているにちがいない、と思っていたからだ。
(本間健彦著『街を創る夢商人たち』三一書房)
ご紹介した一節は、1970年代初頭の<ミニコミ・ブ−ム>といわれた時代のミニコミについて、その10年後位に振り返って考察した文章である。当時、つまり80年代にはすでにミニコミは過去の若者文化現象として忘れ去られようとしていた。だが、ミニコミ書店は健在だった。大型書店と新古書店という業態の安売り本屋の台頭により、街の小さな本屋は軒並み廃業に追い込まれているという。けれどもミニコミ書店は健気に生き抜いている。もしかしたら、ミニコミ書店は、都市という砂漠の中のオアシスなのかもしれない。だから生き続けられるのではないか。久しぶりに数軒のミニコミ書店をのぞいてみて、そんな感想をもった。
「模索舎」新宿御苑正門前の横丁にあるミニコミ書店の老舗。70年10月オープン。当初は「シコシコ」という店名の喫茶店だった。この店を始めたのは、大学闘争の時代にノンセクト団体の旗頭だった五味正彦。<就職しないで食っていくにはどうしたらいいか?>五味はドロップアウト派の仲間と大真面目に語り合った。彼は<新宿に溜まり場をつくろう>と提唱し、仲間の中から五十名の出資者を募り、500万円を集めた。地下鉄工事のバイトなどで稼いだ金だったという。この資金で五味は店を作った。だが、溜まり場の飲食店は一年足らずで経営難に陥った。活路を開くため、喫茶店を縮小し、「ズッコケ書房」という本屋を併設した。しかし、取次店や出版社に本の仕入れに行ってもまともに取り合ってもらえない。理由の一つは店名だった。シコシコもズッコケも当時の学生の流行語だったのだ。ならば、と暗中模索して、「模索舎」と改名。店名変更と同時に飲食店を辞め、書店一本でいくことにした。すると折からのミニコミ・ブームに乗り、「模索舎」はたちまちミニコミの拠点になった。また、各党派の機関紙が週刊誌のように売れたといわれる。
ところが、「好事魔多し」という事態が生じた。72年7月、模索舎は、永井荷風作と伝えられる春本『四畳半襖の下張』を売っていたという猥褻文書販売容疑で警視庁に摘発され、代表の五味正彦が逮捕されたのだ。従業員にも指名手配されたものがいた。後に小出版社を対象にした取次店「地方・小出版流通センター」を興し代表になる川上賢一である。
「猥褻でやられたが、警察の狙いはミニコミ書店の弾圧だった」と五味は語っている。
この事件で五味は、以後六年間裁判闘争を展開。裁判の終了した70年代末、「もう、やるべきことはやったな」と、店を継続したいという後輩に経営権を無償で譲渡し、模索舎を辞めた。条件は、「勝手に閉店しなこと」。その一点だけだったという。
さて、現在の模索舎のことだが。店の雰囲気は昔とほとんど変わっていない。例えば、書棚の分類を見ると、<思想><人権><部落解放><戦争責任><在日><中国・台湾><朝鮮><反日><天皇制><死刑><政治党派>といった項目が目を惹く。平台には各党派の機関紙やミニコミ誌(紙)が山積み。機関紙は今も主力商品だそうで、公安関係者もいいお得意さんとか。ロングセラーを訊ねると、『救援ノート』(救援連絡センター刊 500円)という小冊子の名が出た。オビに「逮捕される前に読んどく本」とある。69年に創刊され、現在7刷り。ここ3年間だけでも450冊売れたという。
現在、共同経営しているメンバーは男2人、女1人の3人。紅一点の綿貫真木子に本屋で働く歓びを聴くと、「面白いミニコミが創刊され、それがうちにも納本されると、役得でぱらぱら読んじゃうんですが、そういうときはすごく嬉しいですよ。そのミニコミが売れたときは本屋としてもの凄く嬉しいですね!」という答え。こちらも嬉しくなった。
「タコシェ」は、JR中野駅前の有名な商店街「ブロードウエイ」内3階にある10坪たらずの本屋。小さい店なのに、本だけではなく、CD・ポストカード・イラスト・絵・雑貨類などは所狭しと並んでいるので、玩具箱を覗くような楽しさがある。70年代の漫画全盛期にシリアスなマンガ雑誌『ガロ』を発行していた青林堂が93年6月、高田馬場で開店したのが前身だという。品揃えが雑多の割りに独特のカラーが認められるのは、店のポリシーがしっかりしているからだろう。同店の客には「インディーズ(自主制作作品)のCDや原画の掘り出し物を探しに来る者が多い」といった評判も聞く。「本についていうと、うちは古本屋ではないのですが、古い本でも読み直したい本は積極的に仕入れて置くようにしています。また、作家からの委託販売も受け付けています」(代表・中山亜弓)
「ナワプラサード」西荻窪南口にある<ほびっと村>は、70年代カウンターカルチャー世代の聖地(メッカ)として知られてきた。エレベーターもない4階建てビルが、その<村>の所在地。1階が八百屋と家具の工房、2階がカフェ・レストラン、3階が本屋と学校というライン・アップで、<村>は形成されている。各店独立の営業だけれど、創業時(76年)のメンバーは先年亡くなった詩人・山尾三省一派のヒッピー仲間で、新宿や国分寺などから流れて来て、この地に<村>を創ったのである。
「ナワプラサード」を始めたのは、通称・樵夫(キコリ)。精神世界系統の本を集めた本屋というカラーを打ち出し、山尾三省の『聖老人―百姓・詩人・信仰者として―』など、出版もしてきた。その頃の同店は独房みたいな雰囲気の書店で、俗人を寄せ付けないといった印象が強かったのだが…。今回、取材で久しぶりに立ち寄ったら、明るいお洒落な雰囲気の本屋に変身しているのでびっくりした。店主も94年4月から高橋ゆりこに代わった。高橋は以前、翻訳の仕事をしていて、この店に客としてよく来ていた。キコリに「やってみない」と代替わりの話をもちかけられたとき、1年ぐらい考え、2代目店主を引き受けたという。「基本的な方針は、キコリさんのときと同じです。ただ一般の方にもわかってもらいたいので、<生まれてから死ぬまでの間に、人間が色んな諸問題に遭遇するとき知性的に対処できる本>を集めた、<役に立つ本屋>を標榜しています」と高橋はいう。
場所柄、女性客も多く、いまやお孫さん連れの3世代の顧客も出てきているとか…。
同店が発行している最近の情報紙の編集後記に、高橋ゆりこは、こんなお知らせを書いている。「8月より、ナワプラサード・ロングセラーズ・コーナーを、店内に設けました。時代に翻弄されず、時代を超えて求められている本たちです。このような本が売れていることは、私たちの喜びです」(『ほびっと村学校』09.2003)。
「ONELOVEBOOKS」下北沢は、近年<劇場街>、日本版のオフ・ブロードウエイとして売ってきた。若者の街だ。同店は良質の小さな本屋を志し、この街に開店して二十年になる。七坪ほどの店内は、シャツ・帽子・マフラー・装飾類などのファッション洋品で大半を占められていて、本屋に入った感じではない。よく見ると、両サイドの書棚にはなかなかセンスのいい本が品揃えされているのだけど、行く度にそのスペースが小さくなっている気がする。「看板に偽りありでお恥ずかしいのですが、本が売れないので、そうなってきています。若い子たちが“ワアー、ステキなお店”とかいって大勢来てくれるんですが、本には見向きもしない。若い人が本を読まない社会って未来がないんじゃないかな。寂しいですね」同店を担当して十年になるという店長・蓮沼英幸の述懐である。
「書肆アクセス」本の街・神保町に所在。同店は前述した地方・小出版流通センターの直営店。76年にお隣の小川町にオープンした「展示センター」が同店の前身だという。同店の特色は、親会社が現在扱っている全国の小出版社(約1000社)が出版している本を軸とした品揃えができることだろう。大手の取次店が扱わない本だから、当然どんな本でも揃うという触れ込みの大型書店でもない本が、ここでは手にとり、購入できる。書棚を眺めると、地方別の分類がされている。「地方の資料を求められる大学の先生や研究者の方がよく見えますね。それと地方出版の歴史書やガイドブックを探しに来るお客様が多いかな。地方直産の本はやっぱり情報が濃いって、評判がいいですよ」と店長の畠中理恵子は語ってくれた。啄木の歌ではないが、上野駅に故郷の匂いを嗅ぎにいくように、このアクセスを訪れている客も多いのかもしれない。
「有機本屋=ほんコミ社」五味正彦が「模索舎」を辞めたあと、吉祥寺につくった本屋。ただし同店は、正確にいうと、「小売書店ではなく、80年以降全国各地に増えてきた自然食品販売店や自然食レストランなどに、食品関連の書籍を卸している取次店です」と五味は説明している。現在、提携している店は約50軒。店名の由来も、この書籍取次方式から命名されたのだろう。だが、店では、食品関連書以外の一般書も品揃えされ、小売もしている。なにしろ五味正彦は<ミニコミ・小出版の生き字引>と目される人物だから、目利きの五味が集めた本を眺めにいく愉しみもある。
(2003年11月『街から』67号)

日時: 2008年04月29日 15:36
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