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2010年06月21日

高田渡の主治医・フォーク歌手藤村直樹さん追悼

106号 シティライツ・ノート

 高田渡の主治医・フォーク歌手藤村直樹さん追悼
「君こそは友」という仲ではなかったけれど……。 本間健彦

 京都在住の医師、フォーク・シンガーでもあった藤村直樹さんが去る四月二十七日亡くなった。六十二歳だった。藤村さんは、フォーク歌手の故高田渡さんの盟友のひとりであり、渡さんの主治医としても知られていた。私が藤村さんと知り合ったのは三年前、本誌に連載した「高田渡紀行」京都篇取材の時だった。この時が初対面だったのだが、私は藤村さんのマンションのゲストルームに二日間居候させてもらい、たいへんお世話になった。藤村さんが肝臓がんという厄介な病を抱えていることはその時に本人から聞いた。それなのに彼はワインを水のように呑んでいた。三条の鰻屋で昼食を一緒にした時、「あっ忘れてた。ちょっと失礼」と藤村さんは言って腹を出しインシュリン注射を打ち、終わると何事もなかったように酒を呑んでいた。
 昨年四月、藤村さんは「高田渡誕生会60」に出演するために上京し、渡さんのレクイエムとして作ったという新曲『君こそは友』を歌った。そして打上げの飲み会終了後、藤村さんは同伴した奥さんと小宅に寄ってくれ、泊まってもらうはずだったのに、結局夜明けまで飲んで話しこんでしまった。
 藤村さんは、時折、思い出したように携帯電話をかけてきたが、飲み屋からでもかけているのか大抵酔っぱらった口調だった。そのたびに私は、「少し酒は慎んだほうがいいんじゃないですか」と、釈迦に説法するような御託を並べたりしたが、「大丈夫です。ぼくは勤務中は呑んでいませんから……」と禅問答みたいなジョークを返された。
 藤村さんは、高田渡への追悼文のなかに「ぼくは身体については渡の主治医だったが、心については渡がぼくの主治医だったと思う。」「たがいに主治医として、患者として、二〇年近くを付き合うことになってしまった」と記している。この二人は、共に音楽をこよなく愛し、多くの仲間たちから愛されていたけれど、余人には窺い知ることのできない大きな心の憂さと闇を抱えていたのだろう。
 藤村さんは、『街から』九八号(二〇〇九年二月)に「老人は国会突入を目指す」と題したエッセイを寄稿している。この一文は前年に出した同名のCDについて藤村さん自身が記したライナーノーツだった。この歌には、医療や介護の荒廃に怒りを燃やした老人たちが〈よたよた よぼよぼ こけつ まろびつ ぜいぜいと 這いずりながら 政府を倒すために 国会突入を目指す〉といった漫画チックな老人蜂起の姿がうたわれている。その昔のプロテストソングという感じの歌ではない。むしろブルースだ!飛礫(つぶて)を投げつけるような過激な歌詞がぶつけられているけれども、現実はそんな歌の告発なんか遥かに追い抜く勢いで悪化しているのですよ!というのがこの歌にこめた藤村さんのメッセージだった。
 今年の三月二十日と二十一日の両日、京都のライブハウス捨(じっ)得(とく)で藤村直樹さんの「中休みライブ」と称したコンサートが開催された。案内状や本人の電話での説明では、しばらくの間音楽活動を中断し、医師に専念したいので……という趣旨で企画されたコンサートのようだったが、じつは私は、「お別れの会」に参列する覚悟でそのコンサートに馳せ参じた。高石友也・小室等・中川五郎・古川豪・ひがしのひとし・いとうたかお・・・など藤村さんの親しい歌仲間がおおぜい参加しており、二日間にわたる長丁場のなかなかごきげんなライブだったのだが、私は心から愉しめなかった。主役の藤村さんのあまりに憔悴した姿を見るのは辛かったからだ。予期していたとおり、それは藤村直樹さん自身が最期の渾身の力を振り搾ってプロデュースした「お別れの会」のように思えてならなかったからで、実際にこれが藤村さんのラストコンサートとなってしまったのだった。
 思えば、私は藤村さんと、そのラストコンサートの時に短い時間会ったのを含めて僅かに三度しか会っていなかった。とても「君こそは友」という仲ではなかったのだ。そうではあるのだけれど、藤村直樹さんのような人物と出会えたことをとても嬉しく思っている。「お疲れ様!」と声がかけられないのが何とも寂しい。 (『街から』106号 2010年6月~7月号)

フォークの神様♂ェ林信康へ向けた黙示録    

シティーライツ・ノート
「山谷のキリスト者」が記録してきた
フォークの神様♂ェ林信康へ向けた黙示録        
 本間健彦

 広い世間には、たぶんその名をそれほど知られていないけれど、ひとたびその人の存在を知れば、おっ!と思わず息をのんでしまうような、そんな凄い人物が在(い)るものだ。京都長岡京在住の田頭道登(たがしらみちのり)さんなども、その一人だろう。いったいどんな人物なのだろうか。
 田頭道登の人物像と足跡は、彼がこれまでに書いた三冊の本――『山谷キューバフォーク』(一九七九年刊)、『岡林信康黙示録』(一九八〇年刊)、『私の上申書―山谷ブルース—』(二〇〇四年刊)を読めば、ほぼ全貌を読み取ることができる。これらの著書はいずれも自分史として綴られているが、内容は単に自分の生い立ちを回想的に記したというものではない。彼が二〇代から三〇代にかけて身を投じて関わり体験した六〇年代〜七〇年代初頭の日本社会は、第二次世界大戦の敗戦を切り抜けて復興を果たし、高度経済成長期に突入した時代で、一方では公害問題や炭鉱閉山に伴う労働争議や日米安保条約反対闘争が沸騰するなど、高度経済成長の様々なひずみが露呈し、戦後民主主義が曲がり角の危機を迎えるといった激動の時代だった。
 田頭道登は、この時代の坩堝(るつぼ)といっても過言ではない山谷で日雇い労働者として三十代の独身時代を過し、六〇年代末から七〇年代初頭にかけては若者たちが新しい表現の舞台として、また不条理な社会に対するプロテストの武器として開拓したフォーク・ソング・ムーブメントに関わっている。そのような体験を克明に記した田頭の自分史は、その時代のドキュメンタリーであり、すぐれたノンフイクション作品として読むことができる。またこれら三冊の著書をいずれも自費出版していることにも著者の強い自負と意気込みを見て取ることができるだろう。
 田頭道登は、一九三二年(昭和七)生まれ。豊後水道を隔て九州が見渡せる愛媛県三瓶(みかめ)町の出身である。前記の三冊の本は、いずれも自分史の体裁で書かれているが、生い立ちに関しては、「生誕して二〇日ばかりで里親に預けられた」とか、「五〇年のクリスマスに洗礼を受けた」といった記述があるのみで、詳細は記されていない。注釈を付けると、田舎のプロテスタント教会で洗礼を受けているのは十八歳の時と知れる。理由は記されていないが、たぶん求道心の強い感受性の豊かな青年だったのであろうことがしのばれる。
 道登は、一九五三年・二十一歳の時に父親と喧嘩をして家出している。この彼の初陣は惨憺たるものだった。何とか大阪まで辿り着いたものの、伝道師を志して飛び込んだ教会にあっさり門前払いを喰らい、何の当てもなかったが東京へ行こうと夜行列車に乗った。東京までの切符を買うと、すでに財布は空っぽで弁当代も無い始末。そんな初陣というか、自立へ向けた旅立ちだったのである。
 上京後、田頭は、新聞配達や呉服関係の仕事に従事し自活の道を模索しているが、充実感が抱けないどころか、むしろ虚しさがいや増すばかり。日々の暮らしに追われているうちにたちまち十年近い歳月が流れた。そんな生活から脱出しようと思い立ち、当時の流行り言葉で言えば、「蒸発人間」となり、山谷へ転がりこんだ。
 一九六三年、田頭三十一歳の時、彼はドヤ暮らしを始め、日雇い労働者として働き始めたのである。高度経済成長時代へ邁進している最中であり、しかも東京オリンピック開催前夜で東京の街はビルや道路などの建設ブームで湧いていたから、仕事にあぶれることはなかった。だが、仕事はどれも過酷な肉体労働ばかりで、そのうえ山谷の日雇い労働者は世間から蔑視され、差別され、落伍者のように扱われた。一日の労働を終え、帰る処はドヤで、そこは畳一枚敷きの押入れのようなスペースで立ち上がることもできない。おまけに南京虫との共棲が当たり前という環境なのだ。その頃、夏になると夏祭りのように山谷で暴動事件が頻発していたのは、そんな情況から生じていたのである。
 注目すべき点は、田頭が、単に仕事を失って困窮した末、落ちぶれ果てて山谷に漂着したわけではないという点であろう。彼は敢えて山谷入りした理由をつぎのように記している。
〈「ぼくは、山谷のドヤ街(簡易宿泊所)に住んで、伝道してるんだよ」と、東京の浅草北部キリスト教会の中森幾之進牧師の話をきいて山谷を尋ね、それっきりいわゆる「蒸発人間」となった。〉(『山谷キューバフォーク』)
 つまり田頭は、山谷のドヤ街に「イエス」を発見し、その中森牧師に導かれるように山谷へ赴いているのである。そしてもうひとり当時の山谷には、中森牧師と一緒に伝道活動をしていた伊藤之雄牧師という人物がいた。この頃、二人の牧師は、日本基督教団隅田川伝道所を設立しているが、田頭は同所の書記に任命されている。このほか田頭は、山谷労働者協力会、山谷地区学習会、小さなバラ子供会、地域誌『人間広場』の編集など、諸活動に関わっていただけでなく、『山谷のキリスト者』というミニコミ誌をガリ版刷りで週に一回発行している。もちろん、これらの活動は生活の資を得るための日雇い労働の合間を縫って行われていた作業だった。
 田頭は、山谷で〈人間が、この社会でいかに尊いものか、それと共に、どれほど疎外され、抑圧され、苦しみを与えられ続けているかを教えられた。〉と述べていて、〈山谷こそ、私を救い、前進せしめ、私の精神と肉体をギリギリに追いこみ、人間社会について開眼せしめた場所〉であり、自分は〈山谷大学〉の学生であったのだと書いている。(『私の上申書[山谷ブルース]』)
 そして田頭道登は、この山谷でフォーク歌手としてデビューする前の神学生時代の岡林信康と出会うことになる。田頭の本には、岡林からの私信が沢山紹介されているが、岡林青年の真摯な青春像がうかがえ感動を覚える。岡林信康は牧師の子息で、牧師になろうと、同志社大学の神学部に入学した。だが、次第に自分が進もうとしている世界にムシャクシャするようになり、自分をブッこわしたいという衝動に駆られるようになる。収録されている岡林の手記には山谷へ行こうと思い立った心境がつぎのように記されている。
〈ちょうどその年の夏、うちの教会に来ていた札つきの非行少女が、あることで警察にあげられました。その少女をめぐって、「教会は、そんな子の来る所じゃない」という声が、教会員の中におこりました。信徒の偽善とエゴイズム……それに、彼女を恐れて関わっていくことをしなかった自分、自分の持っていたと思う信仰……既成の教会に対する反発と、自己自身のキリスト教信仰に対する疑問、劣等感がとうとう爆発し、一九六六年八月の終りに「山谷」で活動している牧師に会いたい気持ちと、ヤケクソ半分の、どうでもなりやがれ的な気持ちで山谷に飛び込んだわけです。〉(『人間広場』70年2月・bW)
 田頭の本には、その裏付けがこんなふうに記録されている。〈(六六年)このころ、岡林信康君(当時、同志社大学神学生)が、消沈しきって、山谷の私達を訪れた。労働センター前の私の宿泊していたドヤでの生活で、私が上、彼が下段だった。一泊百六十円の前払いであった。彼は稼いだ金でボクシングのグローブを買って滋賀県近江八幡の実家(教会)へ帰って行った。〉
 翌年夏にも岡林は再来していて、つぎのように記されている。〈六七年の夏、岡林君は、同じ神学部の平賀久裕君と共に山谷に来た。平賀君も山谷の現実には驚いたようだった。坊主頭の彼は、ドヤでウイスキーをコップであおって「神は死んだ!そう言ったニーチエも死んだ!」と、大声で酔っぱらい叫んでぶったおれた。現在の教会の不甲斐なさ、神の死んだ教会のあり方を彼は神学部の「夏季研修報告」で告発した。このとき岡林君は、山谷で質流れのギター(三千二百円)を買って近江八幡へ帰った。〉(『私の上申書—山谷ブルース—』)
  今日の仕事はつらかった
  あとは焼酎あおるだけ
  どうせ山谷のドヤ住まい
  ほかにすることありゃしない
 
 この詞は、岡林信康のデビュー曲として知られる『山谷ブルース』の一節で、この時の山谷体験から生まれた歌だった。田頭の本には、この歌の誕生の経緯がつぎのように記されている。〈京都に帰った平賀から、山谷の体験を綴った一傍観者の作による『山谷ブルース』)という詞が送られて来た。私はこれを「山谷のキリスト者」(第三号)に掲載した。〉
 この冊子は岡林にも送られた。それを読んだ岡林から、山谷の田頭につぎのような手紙が寄せられた。その一節を引用する。〈山谷からかかえて帰ったギター。こいつがとんだ事を引き起こしました。自分でギター弾きながら作った歌が一五曲あまりになったのですが、去る十一月二十三日、草津で高石友也という知る人ぞ知るフォーク歌手(釜ヶ崎にいた事があるそうです。立教大学八年生!)が反戦集会に来た時、俺も自作の歌二曲を歌わせてもらいました。(中略)週報(山谷のキリスト者)に記されていた平賀の詞(山谷ブルース)にさっそく曲を作ってみました。かなりの線の曲ができたによって、また聞かせます。たのしみにしとれ。〉
 岡林信康はこの頃からフォーク・ソングを歌い始めた様子がわかるし、『山谷ブルース』の誕生の楽屋裏が読み取れる。
 その後、田頭は山谷に別れを告げ、岡林の故郷・近江八幡に移住し、そこでも日雇い労働に従事しながら、岡林と共に被差別部落の解放運動に加わっている。そしてその運動の中で〈彼らと共に『チューリップのアップリケ』『がいこつの歌』『友よ』などが作られた。これらの歌は、集った仲間の共同の作詞、作曲である。それ故に『友よ』は、部落解放同盟滋賀連合会の歌となった。〉(『私の上申書—山谷ブルース—』)という重要な証言をしている。
 一方の当事者である岡林信康の証言や反論が無いために、一体どちらが正解なのか、明確に判定を下すことはできないのだけれど、既存の岡林のレコード等では、『山谷ブルース』も前記の歌も、「作詞・作曲/岡林信康」と記されている。田頭さんにお会いした時に確認したところ、「『山谷ブルース』に関しては、平賀君と岡林君との間で了解しあっているようなので盗作ではないのだが……」と語っていた。けれども、著書の中では〈伝説への逆義をしなければならないのは、『山谷ブルース』の原作詞は平賀久裕君であり、補作詞が岡林信康君だということである。私が生きているうちに証言しておかなくてはならない。〉(『私の上申書—山谷ブルース—』)ときっぱり言い切っている。
 田頭道登と岡林信康は、あの時代の山谷で出会い、年齢差など関係ない同志的な友情で結ばれた仲だった。その絆が、なぜ、ほどけ、はぐれてしまったのか。田頭は三冊の著書で繰返しその問題に迫ってきた。それは岡林信康に向けての黙示録と言えるものなのだが、これまで岡林信康からの答えは聴こえて来ない。
 田頭さんにお会いした時に、平賀久裕さんの消息を尋ねたところ、「平賀君はタクシー運転手をしていて、時々、京都のライブハウスで歌っていますよ」と伝(おし)えてくれた。平賀さんの歌もぜひ聴いてみたいと思った。